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執筆者の写真ゼミ 横山

越境した中国の京劇

張桂琴氏と郭江氏稽古取材

張 藝逸(チョウ ゲイイツ)

 

日本で京劇の役者をされている張桂琴氏と、彼女の学生である郭江氏に稽古取材させていただきました。国境を超えた芸能のわざの意義を探究するための貴重な経験になりました。


京劇について


京劇とは、唱(うた)、念(せりふ)、做(しぐさ)、打(立回り)によって構成される独特の様式を持っている中国の伝統演劇です。また、京劇では女性の主役を「花旦」と呼び、「花旦」を演じる男性役者を「男旦(女形)」と呼びます。


中国の京劇の女形芸術の大成者とみなされた梅蘭芳が創立した梅派の代表作品として、『貴妃酔酒(きひすいしゅ)』と『覇王別姫(はおうべっき)』が挙げられます。楊貴妃と虞美人のような優雅、善良な伝統的な女性像を表現するのは梅派の追求です。

国境を超えて京劇を日本にもたらしたのは新潮劇院です。新潮劇院は中国の劇団で活躍していた在日中国人京劇俳優と日本人京劇俳優とで構成され、京劇普及活動を通して日本での外国文化振興と日中友好の架け橋を担っています。

2021年7月30日、新潮劇院の京劇教室において、京劇講師張桂琴氏(花旦)が在日中国人である郭江氏(男旦)に稽古をつける様子を取材させていただきました。その日の前半は『貴妃酔酒』のうた、後半は『覇王別姫』のしぐさを中心に練習していました。


稽古場面

唱(うた):「ピンイン(注)を思い出して」

(注)ピンインは中国語のローマ字による表記法の一つ。


最初に郭江氏は『貴妃酔酒』のうたを歌いはじめ、張桂琴氏(以下、先生)は拍子を打ちながら、間違ったところがあるたびに中断して指導します。

(図1張桂琴氏が拍子を打ちながら指導している様子)

その日に練習した歌詞は以下の通りです。


皓月当空,恰便似嫦娥离月宫

奴似嫦娥离月宫。好一似嫦娥下九重清清冷落在广寒宫

啊,广寒宫

玉石桥斜倚把栏杆靠,那鸳鸯来戏水

金色鲤鱼在水面朝,啊

水面朝,长空(啊)雁

雁儿飞,哎呀雁儿啊

雁儿并飞腾,闻奴的声音落花荫

这景色撩人欲醉,不觉来到百花亭


先生は郭江氏の一回目のうたに対して、「宫(gong)」の「ng」の歌い方が適切ではないと指摘しました。「音を出したから口の形を変える」と言って、自分の口の形に注意を払うように指導しました。手で口の変化を再現しながら、口の動きを大げさに表現しました。しかし、郭江氏の二回目の歌にも満足する様子はなかったです。


(図2 張桂琴氏による一回目の指導様子)


そこで、二回目の指導を始めました。先生が「ピンインのことを思い出して。『ng』は鼻音で締めるのだよ」と伝え、手でボリュームの変化を示しながら、鼻音を表現し、もう一回歌いました。そこで、先まで歌詞を見ていた郭江氏はパッと頭を上げ、何か思い出した様子で、三回目の実践でやっと「ng」のところをクリアし、次に進みました。


(図3 張桂琴氏による二回目の指導様子)


また、郭江氏が「雁(yan)」を歌う時に、先生は中断し、「ピンインで『y』が最初の場合では、『イ』の音を先に出して」と指導しました。その指導を受けた郭江氏は直ちに修正しました。さらに、先生は「唇は力入れすぎ、開けすぎないで、女の『俏劲』(姿が粋であること)を表現するんだ」と伝え、歌の他に演技の指導も行いました。


做(しぐさ):「虞姫に置き換える」

歌を練習した後、演出服装に着替え、道具の剣を持ち上げ、『覇王別姫』の練習を始めました。その日に練習した場面は、演目のクライマックスである虞姫の剣舞です。舞台を一周し、剣を使ったキメポーズまでの動きに私は特に注目しました。


(図4 舞台を一周している様子)


郭江氏の舞を見ていた先生は満足できなかったのか、「目線!目線!」と注意し、稽古を中断しました。そして先生は視線の方向について学生が明確できていないことに気づき、郭江氏と一緒に舞いながら、「この時そこを見る」と目線の方向を教えました。しかし、二回目を舞う郭江氏は前回よりよくなっていたが、先生はまた「目線!目線!」と注意をしていました。


稽古はまた中断されましたが、先生が隅に置いてあった椅子を持ってきて、鏡の前に置きました。先生はその椅子を指し、「自分を虞姫に置き換えて、彼女が古い時代の女という気持ちを想像して、そこに座っている覇王をどう見るかを考えて」と指導しました。そして、その指導を受けた郭江氏はより安定した目線と動きで演技することができ、中断されることなく次に進みました。


郭江氏に伺って


筆者は練習後に、郭江氏に京劇についてお話を伺いました。


──京劇は好きですか。


はい、特に程派(注)の演出が好きで、ずっと見ています。


──ずっと京劇をやっていますか。


実は中国にいた時には、ほどんどの若者と同じく京劇にあまり関心を持っていなかったんです。日本に来てから、ここに京劇教室があるということを知って、やり始めました。


──なぜ日本に来た後に始められたのですか。


僕は今日本で就職しているんですが、その前に韓国で長期滞在をしていて、長い間に母国から離れて生活をしていました。そういう時に、京劇を見て、その中国の伝統演劇が持っている特別な美しさに感動しました。そんなに素晴らしい京劇を聞くたびに、自分が中国人であることに誇りを持つことができ、中国文化の宝物である京劇にハマっちゃって、毎日京劇の歌を聞くようになりました。


──今後も京劇やりますか。


はい。仕事がどんなに忙しくても、必ず定期的に京劇教室に通っています。京劇はまさに自分の趣味だけではなく、日常のストレスから解放できる救いなのです。今はまだ舞台に上がることはできませんが、京劇の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい、発信していきたいと強く思っています。


取材を通じて見えてきたこと


稽古をつけるプロセスは、とても興味深いものです。生徒は先生の形だけを真似するだけでなく、自分の理解も加えて表現していました。自分自身の内側にあるものを外側に表現する方法を身に付けたことによって、満足のいく成果が得られました。一方、先生は生徒の反応を見て、最も適切な教え方を探り、わざ言語を変えながら指導を展開しました。すなわち、先生と生徒の共同成長を果たしたということです。


また、中国語の表記記号であるピンインや、中国の伝統的な女性像に自分自身を置き換えるなど、越境した伝承の現場におけるわざ言語は、中国という文化的コードを強調していると思われます。つまり、国境を跨いでわざを伝承するというプロセスそのものは、文化的アイデンティティの伝承でもあり、アイデンティティの複合化を促すものであるとも言えるのではないでしょうか。


実際、郭江氏にお話を伺って、私は在日中国人として深い共感をおぼえました。グローバル化が進んでいる中、自分のアイデンティティが混乱もしくは喪失していく危険性も多々あります。そういう場合に、郭江氏のように自文化の伝統演劇によって文化的アイデンティティを再構築することには、必然性が感じられます。 


このようにアイデンティティをめぐる問題は、中国と日本だけではなく、グローバル社会のどこにおいても起こり得る問題です。今回取り上げたような越境した演劇を通して、自他文化の限界に迫ることができ、従来の固定的な観念や考え方を超え、一人ひとりが異なる固有の主体性を持つことが可能かもしれません。これはさらに、社会における多様性の構築にも繋がると考えられます。今後は、このような問題を、多文化共生、グローバル社会における異他性と結びつけて考えていきたいと思います。


取材後記


今回は京劇のわざを伝承する場を拝見させていただき、張桂琴先生による丁寧な教え方、生徒の方の勉強への熱意が非常に印象的でした。先生と生徒のやり取りによって、色々勉強させていただき、今まで気づかなかった側面から京劇を楽しめるようになりました。また、張桂琴先生が出演した能とコラボした『覇王別姫』のような「和」に沿った新演出によって新たなアジア伝統芸術を創造するプロジェクトを拝見する機会があり、越境した演劇における多様な可能性を感じることができました。このように、自分の国の芸術、東アジアの文化の粋をもっと発信し、若い世代だけではなく、東洋文化に馴染みがない人たちにも伝えていきたいと強く思っています。貴重なお時間をいただき心から感謝申し上げます。


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