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  • 執筆者の写真ゼミ 横山

【劇評】SCOTサマー・シーズン2022~古き“良き”演劇の見本市、利賀~

瀧口さくら


野外劇場(筆者撮影)



古典と呼ばれる演劇を、見ておかなくては。


そう思い立ち、私は富山県の利賀村に向かった。


それは、とある演劇祭に参加するためだ。


「SCOTサマー・シーズン」


利賀はイツデモ上機嫌!をキャッチコピーに、初開催から40年を記念した今年のサマー・シーズンは、例年よりも大きな規模での開催だそうだ。


以下、引用する。

「世界は日本だけではない 日本は東京だけではない この利賀村で世界に出会う」というスローガンのもと、1982年に開催された「第1回利賀フェスティバル」は、(中略)山奥の過疎地に13,000人もの観客を集めた日本文化史上のエポックメイキングとなった出来事でした。 (中略) 今年の40周年を記念した「SCOTサマー・シーズン2022」では、鈴木忠志演出の花火劇、ギリシア悲劇、音楽劇というまったく違った代表作3作品を連続上演します。 また、鈴木忠志が理事長を務める利賀文化会議と文化庁、日本芸術文化振興会との共催で、「自然と共生する舞台芸術」というタイトルのもと、次代を担う日本の演出家が競演する作品も上演します。 利賀でのSCOTの活動は、これからも時代を牽引し、世界に貢献していきます。 SCOTホームページより引用)


利賀の旅の様子は別の記事にまとめているため、気になる方はそちらを読んでもらえると嬉しい。ここでは観劇した内容について思うところを書いていく。



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紙風船


演出:島貴之、作:岸田國士、芸術監督:鈴木忠志、制作:SCOT


出演 夫:田中壮太郎、妻:寺内亜矢子 Otto:時田光洋、Tuma:梨瑳子


スタッフ 美術・衣裳・音響:島貴之 フィジカルアドバイザー:山田洋平 照明:加藤九美 照明補佐:荒沢寛子


戯曲は青空文庫で公開されている。こちらから。詳しい内容はそちらを読んでみてほしい。短いのですぐ読める。

今回『紙風船』が上演されたのは、利賀山房だ。利賀山房の舞台は今回見た中で一番小さいものだったが、それでも十分な広さがあった。能舞台のように飛び出している舞台面が特徴的だ。



利賀山房(左手が客席、右手が舞台)


・美術について


舞台美術が一番好きだったのはこの作品だ。斜めに切られた立派な洋服箪笥が、舞台に突き刺さるように存在する。真っ黒な柱や壁でできた空間が際立ち、なんとも美しい。床に反射しているようにも見えた。

洋服箪笥の底が上に来ているのだが、おそらく重心は上の方にあり普通に置くだけだと倒れてしまいそうで、どうやって固定しているのか気になった。上に人が乗って芝居が行われるのだが、びくともしない安定感があった。


・演出について


舞台上にあるのは洋服箪笥と役者と少しの小道具、という必要最低限の要素のみで、役者の身体と言葉に集中させる演出がなされていた。前半は日本バージョン、後半は海外の家庭バージョンの二本立ての構成で、どちらも同じ言葉(台本)を用いていながら、雰囲気は全く異なる。


前半は、日本の家庭のスウェットを着た夫と花柄のワンピースを着た妻が登場する。旧時代的な、外に働きに出る男と内にいる女のアベックが、二人で駄々をこねるようにうだうだと言っている。洋服箪笥の上は狭い家で、二人は最後退場する直前までそこから降りない。

特に素敵だったのは、次のシーンだ(戯曲を参照してほしい)。


夫  日帰りで鎌倉あたりへ行くのもいゝな。 から、 夫  向うに見えるのが江の島だ。


まで、セリフはなくパントマイムのような動きのみで表現されていた。洋服箪笥の上に妻と夫がくっついてしゃがみ、夫が握ったこぶしを電車に見立てて鎌倉へ行く。何かを買い食いしたり、海へ行ったりするのだ。二人の温度感と、演技力の高さに感動した。


後半では、茶色いぼろになった服を着た二人が登場する。外国の絵本に出てきそうな格好だ。Ottoは王冠を頭にのせていて、Tumaは丸い赤ッ鼻を付けて、二人とも太い縁の眼鏡をかけている。洋服箪笥は大海原に浮かぶ小舟で、いい枝ぶりの大きな枝をそれぞれ持っている。それが釣り竿になったりオールになったりする。喋り方がより滑稽になり、英単語が挟まるときもあった。


・ラストシーン


前半では最後、


妻  先へ行つてしまつた……。 夫  さういふこともあつた。


このセリフまでに妻がいつのまにかいなくなっており、男が彷徨うように、追いかけていなくなる(後半の終わりの鳥の件はない)。


後半では最後、ケンカしながらも


夫  犬でも飼はうか。 妻  小鳥の方がよかない。


と言った後、二人で魚取りに勤しむ(前半の終わりの件はない)。


全く違う関係性と今後の展開が感じられた。どういうパラレルワールドというか、台本の切り取り方なんだろうか?後半はオリジナルなのか?と思って戯曲を読んでみると、ラストシーンで庭に紙風船が転がってくることになっていた。つまり、どちらもこの脚本上のラストシーンを演じていないのだ。


この違いは、どこからくるものなのだろうか。コミュニケーションの婉曲さの違いを、お国柄的に表していたのだろうか。国の違いで切り取っていいものなのだろうか?昔の戯曲を色んな表し方で試す作品だった。夫婦の設定以外は全く古臭くなく、むしろクールでおしゃれに感じた。


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エレクトラ


演出:鈴木忠志、原作:ソフォクレス、ホーフマンスタール、作曲演奏:高田みどり


出演

クリテムネストラ:内藤千恵子

エレクトラ:佐藤ジョンソンあき(Wキャスト)

クリソテミス:鬼頭理沙

オレステス:石川治雄

車椅子の男:植田大介、平野雄一郎、飯塚佑樹、江田健太郎、守屋慶二

看護婦:木山はるか、李韻秋、進真理恵、小川敦子、杉本幸、村山かおり

医者:塩原充知(Wキャスト)


スタッフ

演出助手:Anak Agung Iswara

照明:丹羽誠

音響:小林淳哉

衣装:満田年水、岡本孝子

制作:重政良恵、岩片健一郎、尾形麻悠子、橋詰明璃


内容に触れる前に、運営に対して思ったことに触れておく。


客席に座ろうと思ったときに、年配の男性が女性スタッフに「おい!何ちんたらやってんだ!早く座らせろ!」と指示を飛ばしていて、その人が何者なのか(スタッフさんは揃いのTシャツを着ているがそのおっちゃんは着ていなかった)、なんでそんなに怒っているのか、なんで誘導のスタッフが女性ばかりなのかが気になってしまって、「なんだかなあ。”こういう”環境なんですね」と思ってしまった。


・概要


まず、『エレクトラ』を演出した主宰、鈴木忠志による演出ノートから引用する。『エレクトラ』という演目そのものについて書かれている部分だ。


 ホーフマンスタールの『エレクトラ』は戯曲として演劇の舞台のために書かれたものである。(中略)  ギリシア悲劇を下敷きにしたこの戯曲の特質は、アトレウス一家の女性たち、当主のアガメムノンを殺した妻クリテムネストラとその娘の二人、エレクトラとクリソテミスという三人の心情を、現代人にも説得力あるものとして描きわけているところにある。すこし冗漫ではあるが、狂気というものの萌芽はこういうところにあるのかと想わせるところは見事なところがある。世界は病院であり、すべての人間は病人である、という私の舞台作りの発想からすれば、いささかぴったりのものであるが、その印象をもたらす最大の要因は、この三人を閉じられた「家」という状況のうちにおき、それぞれの想いの違いを克明に描いたところにある。その想いは会話のなかに表れてくるのではなく、ほとんど独白という形で激しく語られてくる。そしてその内容はすべて不在の息子であり兄弟であるオレステスの生存と帰還をめぐってなされているのである。そのためもあって、副題を「オレステスを待ちつつ」にしたのだが、ともかく、この女性たちの存在の現在と未来は、不在のオレステスとの関係のあり方に規定されている。一人は息子に殺されることに脅え、一人は弟が母を殺してくれることを願い、一人は兄が死ぬことによってこの状況が変質することを夢想している。『エレクトラ』作品ページより



今回『エレクトラ』が上演されたのは、新利賀山房だ。



新利賀山房(左手が舞台、右手が客席)


利賀山房よりも横にも縦にも広く、上下のほかに正面奥にも出捌け口がある。上からの照明が天井の格子の上から当たることによって、舞台上には光と影がボーダーになって当たる。


・美術と照明と衣装について


基本的には素舞台。上手に打楽器がセットされている。タイヤのついた小さいテーブルが出てくることもあるが、いたってシンプルだ。しかし、小屋の特殊さも相まって風格のある空間になっており、緊張感が常に満ちている。照明が当たっても基本的には薄暗く、やはり黒が際立つ。そこにド派手な衣装の女が現れるとそれはもう、山姥のようだった。逆にシンプルな衣装で四肢が出ていると筋肉の筋の陰影がそれはもうよく見えて、大変見事だった。


過去公演の写真があるので掲載する。



主役 エレクトラ



打楽器奏者 高田みどり


・演出について


この演目では、とにもかくにも人間の身体のエネルギーを浴びることになる。車いすに乗ったコロスの男性が5人登場し、舞台上をヒヤッとするほど速く駆けまわったり、揃った動きで床を踏み鳴らしたりする。エレクトラは野生の獣のような身体で、暴れまわり、唸り、目を爛々と光らせる。打楽器はそれに合わせて、まるで役者の呼吸がわかるかのように呼応しながら雄大に音を響かせる。どの役者も言葉を重めの音で発し、ほとばしるような殺気すら感じる。しかも、エレクトラ、クリソテミス、クリテムネストラの三人は瞬きをしない。ずっと前を睨みつけ、体に力をみなぎらせている。「生」を体現するとしたらあんな感じなのだろうか。ちゃんと「かっ飛んだ」人間を久しぶりに見た。


これまでBGMや効果音が生演奏の演劇を観たことは何度かあったが、今回の打楽器の音だけが轟く演出は、これまでで一番生演奏である意味を感じた。振動がビリビリと伝わり、役者の迫力をこれでもかと後押しするような、場の雰囲気を緊張と爆発で支配するような、そんな存在だった。


ーーーーー

世界の果てからこんにちはⅠ


演出:鈴木忠志


出演 親分:竹森陽一 子分:加藤雅治 僧侶:石川治雄、長田大史、飯塚佑樹、江田健太郎、守屋慶二 紅白幕の女:佐藤ジョンソンあき、木山はるか、鬼頭理沙、進真理恵、Brenna O’Brien 花嫁:佐藤ジョンソンあき 車椅子の男: 이성원、植田大介、藤本康宏、平野雄一郎、山田憲人、李俊、包偉銘


スタッフ 花火師:前田徹、高橋保男、高橋光久、須藤優、松村秀隆、吉田倫哉、植木陽祐、榎本昌弘、村井智紀、根岸佑佳、塩川和典 照明:丹羽誠 音響:小林淳哉 衣装:満田年水、岡本孝子 花火:塩原充知 道具:市川一弥 制作:重政良恵、岩片健一郎、尾形麻悠子、橋詰明璃



・概要


『世界の果てからこんにちはⅠ』は、1991年の初演から上演が重ねられてきた作品だ。演出した主宰、鈴木忠志による初演時の演出ノートから引用する。


今回の舞台、『世界の果てからこんにちは』は利賀フェスティバル開催10周年を記念して、これまでの私の作品の中から、日本について考えさせる場面を抜き取り、花火を使ったショウとして構成したものである。(中略)宗教人の世俗性や日本主義者の民族的妄想、あるいは食べ物をめぐっての些細ではあるが熱狂的な諍いや、歌謡曲に表出される自己満足的でセンチメンタルな抒情など、日本人が陥るバランスを欠いた心性の幾つかを批評的に造形してみた。(中略) ともかく花火を使って空襲や特攻隊自爆のイメージを再現できるなどとは思いもよらなかった。こういう劇場は世界のどこにもないだろう。こんなことが一過疎村で実現したということにあらためて驚くのだが、演劇人としてはたいへん幸せなことで、こんな劇場を作ってくださった利賀村民の皆様に心からの感謝を申しあげたい。


・舞台と美術と衣装について

上記にもあるように、演出として花火を使用するのが大きな特徴だ。そのため、上演は野外劇場で行われる。舞台面壁や天井はなく、代わりに夜空と山と池が広がっている。暗いままだとあまりわからないのだが、それに照明が当たると、遠近感がおかしくなりそうなくらいスケールが大きく見えるのが素晴らしかった。


美術としては簡素なイスが五つや、食事の乗った小さいテーブルなど、ほとんどがシンプルなものだ。その分衣装はかなり派手で、僧侶や紅白幕の女の衣裳の布の量はかなり多い。見た目だけだが、かなり重そうに見えた。背景の雄大さに負けないようにしているのだろうかと思った。



客席から見た開演前の野外劇場(筆者撮影)



紅白幕の女、親分(車椅子に座っている)、子分(サングラス) 産経新聞ウェブ記事より


・内容について


内容は、戦後の病院にいる兵士たちが、偉い人に今後の暮らし(部屋の広さなど)について憤慨している様子や、日本歌謡のような音楽に合わせて踊る・ポーズをとる、といったような感じだった。と思う。言葉がみな難解というか古風で、私にはあまりわからない部分も多くあった。所々笑いどころがあったっぽいが、笑っていたのは常連の年配の方(真ん中の方に座っている)だけだった。おそらく、笑いのセンスやジェンダー観など、古典の戯曲と現代社会ではズレがあるのだと思う。


また、セリフがあるのは男性のみで、女性キャストはなんというか、華のある飾りのような立ち位置に見えた。描いている時代柄や登場する役柄をみると、やはり当時は女性の客体化があったんだなぁと思った。


・花火について


ここで上がる花火は、みな背景や何かの表現として用いられている。たとえば演出ノートにあるような、「空襲や特攻隊自爆のイメージ」などだ。種類は様々で、大きな打ち上げ花火や、水面を滑るように横切るロケット花火、ナイアガラの滝のような花火などなど。どれも大変美しく、それだけで十分見応えがある。 大体ひとくだり終わると、花火が上がっていた。例外はあれど、花火が上がっている間は舞台上に動きはなく、花火がメインになる。そのため、花火を見ていて何かを見逃すということはない。ないのだが、正直なところ、この劇について考えるときは花火についての記憶ばかりがよぎる。それほどまでにインパクトが強いのだ。 花火が近くで上がりすぎて恐怖を覚えたことがあるか? 光と音の時差がほぼゼロの打ち上げ花火を見たことは? 私は客席で、もう内容についてより花火への驚きが大きすぎて、セリフが右から左だった。そりゃあ花火目当ての地元の家族が観に来るし、民宿のおばちゃんはこれを演劇ではなく花火として捉えるよなあと思った。



舞台と花火の様子。 北国新聞ウェブ記事より


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「ここでしか見られない演劇の最高峰」とは、この演劇祭全体なのではないだろうか。野外劇場での上演には利賀の自然環境が上演に大きく影響を与える。それだけなら野外劇場はどこでもそうかもしれないが、花火という利賀ならではの特別な演出があるし、それ以外の劇場も、色や形、香りなどほかの劇場にはない日本家屋の特性を持っていて、本当に一見の価値ありだ。古典を見るという意味でもとても勉強になるし、旅は旅としてとても楽しかった。


長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。


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