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  • 執筆者の写真ゼミ 横山

『常磐音楽舞踊学院50年史 フラガール物語』書評

更新日:2023年10月3日



大谷心路


はじめに


映画『フラガール』の題材となったことでも有名な、常磐音楽舞踊学院は、現スパリゾート・ハワイアンズの前身である常磐ハワイアンセンターの開業に向け、1965年に設立されました。この学院を経営した常磐炭鑛(現常磐興産株式会社)は、戦後復興の波に乗り石炭発掘事業で大きな利益を上げていました。しかし、1950年代半ば政府によって石油へのエネルギー転換の政策が推進されると、経営は窮地に。


そこで、当時常磐炭鑛の副社長であった中村豊は、炭鉱から湧き出る温泉を活用し、ハワイをモチーフとしたレジャー施設の開業を構想しました。そして、その看板として発案されたのが若い女性によるポリネシアンショーであり、そのダンサーの養成のために設立されたのが、常磐音楽舞踊学院です。


本記事では、常磐音楽舞踊学院の歴史をインタビュー形式でまとめた清水一利氏の著書『常磐音楽舞踊学院50年史 フラガール物語』(講談社、2015年)を紹介したいと思います。



猛特訓の日々


本書の面白いところは、半世紀に及ぶ学院の歴史を39名もの関係者のインタビューや生前の証言をもとに生き生きと描いているところです。とりわけ、学院創立当初の秘話に満ちている本書の第一章「東北にハワイを」では、学院の第一期生の様子がありありと記されています。では早速、彼女たちにどんな困難があったのかみてみましょう。


学院創設1年目、苦労の末集まったのは18人。ほとんどは常磐炭鑛に勤める社員の娘で、そのうちダンス経験者はたったの1人だったといいます。そのため、学院生は1日10時間もの猛特訓を行い、学院と寮を行き来する生活が続きました。まさに踊り一色の毎日で、遂には、夜遅くに寮から脱走する生徒もいたといいます。それでも、一期生として入学した本田マサ子は当時を振り返り、こう語っています。


早川先生は(中略)それはもう厳しかった。できないと廊下に立たされたり。(中略)でも、毎日が新鮮で楽しかったから、辞めようなんて考えたことがなかった。みんなもきっと、私と同じ気持ちだったんじゃないですか?少しずつだけど、自分でも踊れるようになっていくのが分かって嬉しかったですよ。(59頁)


このような陳述は他の卒業生からも同様に聞かれます。学院生らにとって、学院で学ぶことはいつも新鮮さに溢れており、また踊りを習得することは苦労にも勝る喜びであったのでしょう。



学院創設当初の学院生の様子(参照:常磐音楽舞踊学院公式サイトhttp://www.joban.ac.jp


また、ハワイアンセンター開業前、広報を担当していた猪狩司は、当時の彼女たちの踊りを「学芸会のような拙いもの」であったと表現しました(78頁)。しかし、実際の観客の熱狂ぶりは相当なものであったという証言があり(78頁)、彼女たちのパフォーマンスがどれだけの熱量と努力で形作られていたのかが伺えますね。



裏方


ここまでは、主役であるフラガールに焦点を当ててきました。しかし、本書では新施設開業に向け奔走し、学院生の輝きを支えたヤマの男たちが取り上げられています。当時、日本ではフラを正しく理解をしている人は少なく、「ヘソ出し踊り」や「裸踊り」と言われ、フラガール、そしてそのステージを彩るのに欠かせないバンドメンバーの求人は困難を極めました。そこで人事部は、従業員に片っ端から声を掛け、「バンドをやるか、もしやらないなら…辞めてもらう」と強い圧力を掛けました。その流れで、バンドメンバーへの転身を決意をした菊池は当時を次のように振り返ります。


あのころ、ダンサーの子たちもヘソ出し踊りとかいわれて白い目で見られることも多かったけど、それは私たちバンドのメンバーも同じでしたよ。私たちに向かって、ヤマの男がそんな軟弱なことをして恥ずかしくないのかなんていう人も多かったですから。でも、もし、これがダメでも、もう炭鉱には戻れない。だから必死でした。(47頁)


また、本書では学院生の生活を支えた従業員の桐原松二郎にスポットライトを当てています。桐原は、もともと常磐炭鑛の労働組合の仕事に従事しており、その面倒のよさと、誠実な人柄から信頼が熱い人物だったといいます。そのため、学院生が暮らす寮の寮長として任命後、献身的に彼女たちをサポートしました。


桐原は、手始めに長年使われていなかった建物を寮に改造するため、徹底的に掃除に励み、学院生がホームシックになった際には、朝までなだめるなどしました。このように寮長であり、母親のような存在であった桐原の姿が記されています。また、新たな職業に必死に食らいついた従業員は大勢おり、多くの人々にフラガールが支えられていたことがわかりますね。



カリスマ的存在ー中村豊ー


最後に、学院の歴史を語るに欠かせない中村豊について紹介します。中村が新施設を構想した動機は炭鉱閉山による失業の阻止にありました。そのため中村は、新施設に関わる従業員を約600人の既存社員とその家族で賄おうと考えていました。しかし、前述したように看板役として欠かすことのできないダンサーは「裸踊り」と揶揄される時代に、なかなか集まりませんでした。そこで、当時役員の1人が「東京からプロのダンサーに来てもらうのはどうか?」と提案した時、中村は即座に次のように返したといいます。


炭鉱人の血を受け継いで、炭鉱の空気のなかで育ってきた人間が踊ることによって常磐炭礦の精神が生きることになる。よそからダンサーを連れてくることはあり得ない。(110頁)


社員を心から大切に思っていたからこそ、ダンサーにはプロではなく、自前の社員を採用したいという強いこだわりを持っていたことがわかります。また、中村は仕事にも、社員にも厳しい人柄で知られ、社内では「中村天皇」と呼ばれるほど、雲の上の存在であったというエピソードがあります。しかし、そんな顔とは裏腹に、中村は学院と学院生のことにはまるで孫を愛でるように接していたといいます。当時、人事課長を務めた鈴木郷太郎はこう語ります。


中村さんは(中略)いわきにいると必ずといっていいほどショーを観ていましたし、寮にも顔を出して、学院生を激励していたみたいですよ。(中略)冬になると、学院生が風邪を引いたら困るから、廊下にじゅうたんを敷いてやれとか、細かいところまでいつも気を遣っていましたね。(147,148頁)


他にも、寿退社が当たり前だった当時、学院生が家庭に入っても苦労しないようにと、ダンス以外にも裁縫や茶道・礼儀作法などを養成カリキュラムに含んだのは、中村の考えによるものでした。自らの信念に基づきハワイアンセンターを構想し、学院へ愛を注いだ中村は、社員にとってカリスマ的存在であったことをこれらのインタビュー記録が証明しています。



中村豊氏と、カレイナニ早川と一期生たち(参照:映画『シネマハワイアンズ』公式サイト  (http://www.legendpictures.co.jp/cinemahawaiians/index.html



最後に


ここまで、本記事では、清水一利氏の著書『常磐音楽舞踊学院50年史 フラガール物語』(講談社、2015年)から学院の創立当初のエピソードを抜粋して紹介してきました。しかし、それは学院の歴史のほんの一部分でしかありません。


本書で清水氏は、本記事では書ききれなかった、学院の知られざる困難や、映画『フラガール』のこと、東日本大震災の時のフラガールの様子などを、インタビューと学院の記録の参照により、抜かりなく、そして臨場感をもって伝えてくれます。


創立者の中村豊をはじめとして、学院に深い関わりのある多くの人々が、愛を込めて受け継いできた常磐音楽舞踊学院、そしてスパリゾート・ハワイアンズの物語を本記事を読んでくださった皆さまもぜひ読んでみてはいかがでしょうか。


最後までお読みいただきありがとうございました。


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