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  • 執筆者の写真ゼミ 横山

今、『パンドラの鐘』が再演されるということ

更新日:


太田楓子


はじめに


1999年11月、野田秀樹と蜷川幸雄は、演劇の世界でとある戦争を仕掛けました。『パンドラの鐘』の競演出です。当時は勿論、今となってもここまで著名な演出家2人が、同じ脚本で舞台を作り上げるというのは非常に珍しい例です。この企画は、演劇ファンに留まらない範囲へインパクトを与えました。












(参照:WOWOWオンラインhttps://www.wowow.co.jp/detail/182330


そんな世紀の対決から23年、蜷川幸雄の七回忌である今年、渋谷シアターコクーンに『パンドラの鐘』が戻って来るとの一報を受け、私は2022年6月20日のマチネ公演に足を運びました。

本公演の演出を担当したのは、実力派若手演出家の杉原邦生。ダブル主演を務めるのは成田凌、葵わかなとフレッシュな顔ぶれ、その周りを片岡亀蔵、白石加代子と歴戦の猛者達が囲み、新生『パンドラの鐘』は幕を開けます。あらすじはこちらをご覧ください。




この記事では、1999年に上演された野田秀樹版の『パンドラの鐘』と本公演を比較して、杉原の演出の特徴を分析してみたいと思います。



音の違い


まず、音響に大きな違いがありました。今回音楽を手掛けたのはDJ、音楽プロデューサーとして活躍するm-floの☆Taku Takahashi。テクノミュージック風の電子音が聞こえてきたかと思えば、尺八の音がremixされていたり、風の吹く音、星がキラキラと瞬く音など、一気に劇場の空間が広がる感じがしました。



(参照:ステージナタリー「多彩なキャストが魅力を放つ、杉原邦生演出版『パンドラの鐘』明日開幕 https://natalie.mu/stage/news/480384


こうした音響は特に場面転換の部分で、効果的に使用されていました。ヒメジョの登場シーンを比較します。野田版では、紙のオブジェが破られ、中から地層の下、過去の世界が表れると共に、派手ではなく、厳かな雰囲気を持つ音楽が流れていました。対して杉原版では、舞台後方の幕間から登場し、不思議なビジュアルをした集団の訪れと共に、現代アレンジされた聞き馴染みのある和風テイストな音楽が大音量で流れます。視覚と同等に、聴覚へのアプローチが際立っている事が分かります。



戯曲にない部分の演出


次に、杉原は、戯曲には「明記されていない」部分の演出を行いました。具体的には、導入の前、そしてミズヲの最後の台詞の後、演目の始まりと終わりの部分です。


導入部分はこのようなト書きから始まります。


「暗闇の中に、古代の音が紛れて入ってくる。(『20世紀最後の戯曲集』より)」


野田版では、このト書きに従って、真っ暗な舞台に土を耕す音が流れるところから公演が始まります。物語を追っていくと、この音が現代の時間軸だけのものではないことを突きつけられ、野田はト書きの通りに「古代の音」から物語を進めている事がわかります。しかし杉原版では、客席からフラフラと現れたミズヲが、舞台の真ん中で床に耳をつけるシーンから始まります。



(参照:ステージナタリー「多彩なキャストが魅力を放つ、杉原邦生演出版『パンドラの鐘』明日開幕 https://natalie.mu/stage/news/480384


又、終焉部分では、戯曲の通り、ミズヲの台詞が言い切られて幕を閉じる野田版に対して、杉原版ではミズヲが最後の台詞を言い切った後、また冒頭と同じ体勢になったかと思えば、舞台背面の機材搬入口が段々と開き、劇場の外、完全な現実世界が観客の目を奪います。


どちらもインパクトのある演出ですが、杉原の方がメタシアター的なインパクトと言えるでしょう。ただし、演劇の世界観が壊されたようには全く思いませんでした。これらは、作品が本来持っている現実への越境性を杉原が汲み取って、つけ加えた演出であったのだと思います。



裸の舞台


二つ目の違いにも関わるのですが、最後は舞台に触れたいと思います。劇場に入って、私の目に飛び込んできたのは、何もない、というより見せられすぎている、といった方がしっくりくる、何も隠されていない舞台でした。ホリゾント(舞台背面を隠す幕)は一ミリも降ろされておらず、私の席からは、舞台袖の積み上げられた機材も見えました。野田版では、冒頭から半紙のような紙で出来た大きなオブジェが舞台上を占めていて、いかにも異世界の雰囲気が漂うセットの作り方でしたから、余計に特異性が浮き出ていました。




(参照:ステージナタリー「多彩なキャストが魅力を放つ、杉原邦生演出版『パンドラの鐘』明日開幕 https://natalie.mu/stage/news/480384


しかし、このわざとらしく何もない舞台が初めに提示されることで、この公演自体が持ち合わせた意味に観客が近づくことが出来るのだと思いました。何もない舞台には、始まりのミズヲの芝居の終わりとともに、突然紅白幕が降ろされ、観客は一気に物語世界に引き込まれます。面白いのは、その二つの世界のどちらにもミズヲが存在していることです。そして同じく私たちも、この二つの世界を行き来できる存在であることに気づかされます。


まとめ


ここまで、三つの違いを見てきましたが、私はこの三つの違いに、現実世界と物語世界の境界線を印象的に見せる為の共通の目的があると思いました。これは、演劇を演劇だけに留めさせまいといった杉原の思いに基づくと思います。20世紀の幕引きとして製作された『パンドラの鐘』は、戦争を起こせざるを得なかった社会に対して一球を投じた作品です。これから始まる21世紀に希みを託した作品とも言えるでしょう。しかしながら、それから半世紀も経たないうちに、大陸では大きな戦争が勃発しています。杉原は、今、『パンドラの鐘』が再演される意味を広く捉え、NINAGAWA MEMORIALと称された、ただのエンタメとして消化されないように、演出を付けたのだと思います。パンドラの鐘の音は、鑑賞からしばらく経った今でも、私の耳に残り続けています。



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