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【鑑賞レポート】能『江口』にみる観客の身体経験

  • 執筆者の写真: ゼミ 横山
    ゼミ 横山
  • 7月15日
  • 読了時間: 4分

 望月こころ


はじめに


個人記事を執筆するにあたってしばらくご無沙汰していた能を観に行こうと舞台を探していると何と目に飛び込んできたのは宝生会特別公演。そのなかの出演者に大倉源次郎氏の名前を見つけました。大倉氏の小鼓には舞台全体に心地よい緊張感を生み出し、自然と観客を物語の世界へと引き込む魅力があります。その芸を生で拝見できる機会だと思い、迷わず購入ボタンを押しました。


宝生能楽堂の様子(筆者撮影)


概要


イベント名:十二月 宝生会特別公演

日時:令和7年12月14日(日)12:00開場 13:00開演

会場:宝生能楽堂

曲目:能『張良』

   狂言『菊の花』

   能『江口』

   能『猩々(乱)』


今回私が鑑賞した十二月宝生会特別公演は、宝生会が開催する定期能とは異なり、特別な演目など通常とは異なる編成や内容で行われるものです。曲目は能『張良』『江口』『猩々(乱)』の3つと狂言『菊の花』を合わせた4つで、途中15分ごとの休憩を挟みながら約4時間半にわたって行われます。本記事では、そのなかでも特に印象に残った能『江口』に焦点を当て、身体表現という観点から鑑賞体験を記していきます。


『江口』の概要


能『江口』

作者:世阿弥か

シテ:辰巳満次郎

ワキ:福王和幸

アイ:石田幸雄

太鼓:亀井広忠

小鼓:大倉源次郎

笛 :松田弘之


『江口』は西行法師と江口の遊女との出会いを描いた夢幻能です。前半では、江口の里にやってきた旅の僧が、昔西行法師がここで宿を求め、遊女に断られた話を思い出すと里の女が現れ、自らが遊女の霊だと明かします。そして後半、江口の君の姿で再び現れ屋形船に乗り込み人生の儚さを嘆きながら舞った後、普賢菩薩へと姿を変え西の空に去っていく場面を描きます。


声に身体を掴まれるという体験


ここでは大倉流小鼓方十六世宗家で人間国宝でもある大倉源次郎氏をはじめとした豪華な出演者に観客たちの眼にも期待が込められ、会場を取り巻く緊張感はひとしおでした。お囃子が始まり、その音の通りの良さに感激したのも束の間、幕の向こう側から地を這うような声が聴こえてきました。全身が椅子に張り付けられるような感覚を覚え、思わず手にしたペンを握りしめました。


能において声は単なる台詞ではなく、身体そのものの延長として響きます。このとき感じた圧力は、音量の問題ではなく、声が持つ質量のようなものでした。視覚よりも先に、聴覚を通して身体が舞台に引き込まれていく感覚がありました。


男性の身体が「女性」になるとき


シテ方の辰巳満次郎氏は身長180cmを超える体格をお持ちのため、生で観たときの迫力は言葉に出来ません。しかし、これは能の最も面白い点だと個人的に感じているのですが、どんなに体格の良い能楽師でも、その仕草や動作から不思議なことにだんだんと女性に見えてくるのです。ダイレクトに耳に響く重低音からは想像できないほど静かな舞に再び息を飲み、その一つ一つの動作から遊女の虚しさや無常観が伝わってくるようでした。


特に印象的だったのは、「黄昏に。たたずむ影はほのぼのと。見え隠れなる河隈に。江口の流れの君とや見えん、恥かしや。」という詞章の場面です。その「恥かしや」の一言に合わせるように、シテが顔を伏せ、視線を落としながら恥じ入るような仕草を見せたことで、そこには確かに一人の女性の感情が立ち現れていました。面を着けているにもかかわらず、わずかな首の傾きや視線の変化だけで遊女の繊細な感情が伝わってきたのです。


これは単なる「演技の上手さ」では説明しきれない現象だと感じました。むしろ、動きを極端に削ぎ落とし、型の中に身体を収めることで、性別という具体性が後退し、観る側の中で像ができあがっていったといえるのではないでしょうか。つまり能においては、「見せる」のではなく「見えてしまう」身体が成立しているのだと考えられます。


「間」が観客の身体を巻き込む


『江口』で強く印象に残ったのは、語られない時間の長さです。「間(ま)」は、単なる休止ではなく、意味が生成される時間であるとされます。本作においても、シテ(江口の君)とツレ(遊女たち)が船に乗り込んだ後、所作が止まり、お囃子が響くなかでしばらく誰も謡わず静かに佇む場面があります。その「間」のなかで観客は船が川を進む情景や、遊女たちの心情に思いを巡らせ、物語世界へと入り込んでいくのです。気づけば、自分の呼吸や姿勢までもが舞台の時間に引き込まれていました。間とは舞台上だけに存在するものではなく、観客の身体をも含めて成立する構造なのだと実感しました。


おわりに──身体から立ち上がる理解


今回の鑑賞を通して、能は身体を通して理解される芸能であると感じました。静かで動きが少ないという印象とは裏腹に、その内部では時間や感情が濃密に流れています。特に『江口』においては、声、身体、間が複雑に絡み合い、観客の身体をも巻き込む形で表現が成立していました。能を専門に学んでいない立場であっても、このような身体的体験を通して、その構造の一端に触れることは可能です。実際に生で能を鑑賞することで、能舞台と観客が一体化する不思議な感覚を味わうことができると思います。本記事が、身体表現として能を捉える一つの試みとして読まれれば幸いです。


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