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  • 執筆者の写真ゼミ 横山

こころに寄り添う作法

更新日:2023年2月2日

小笠原敬承斎氏インタビュー


取材日:2022年10月13日

福 悠香梨、加藤 凪、折笠 汐音、平塚 風里、和田実莉


はじめに


みなさん、小笠原流礼法をご存知でしょうか。少し堅苦しいビジネスマナーをイメージする方も多いのではないでしょうか。小笠原流礼法は、約700年前の武家社会で生まれ、相手を大切に思うこころを作法というかたちで表し、人間関係を円滑にするわざとして現代に受け継がれています。


今回、私たちは、小笠原流礼法宗家の小笠原敬承斎さんに取材をしました。また、取材の前には15分ほど小笠原流礼法の基本を直接お稽古していただきました。その稽古体験も踏まえつつ、現代に小笠原流礼法を伝える工夫や意義について、また敬承斎さんご自身について、お話を伺うことができました。



小笠原敬承斎さんのプロフィール



先代宗家 小笠原惣領家第三十二世 小笠原忠統の実姉(村雲御所瑞龍寺十二世門跡 小笠原日英尼公)の真孫にあたる。先代小笠原忠統の遺志を継いで初の女性宗家に就任して以来、当流に伝わる古文書を中心とした教えに基づき、直門をはじめとする多くの門弟や教育現場において指導にあたっており、学校・各種団体・企業等における講演活動、執筆活動など、様々な分野に活動の場を広げている。また留学経験も活かして、海外における日本の伝統文化の普及にも努めている。(小笠原流礼法宗家本部オフィシャルサイトより)



〇小笠原流礼法について


──小笠原惣領家では、家に相伝されてきた礼法を、先代小笠原忠統氏が一般社会に向けて普及することにされたそうですが、そのときに礼法の教授法に変化したことがありましたら教えてください。


礼法は、昔は将軍家や大名家など、限られた方々に向けて伝えられ、取り入れられていました。おそらく、その環境下で生まれ育った人々には学ばなくても自然にベースとなる礼儀作法が身についていたはずです。しかし、馴染みがない方々に礼法をお伝えし、理解していただくには、「なぜそうすることが好ましいのだろうか」というこころの部分を説くことが必要不可欠であったと思います。


また曾祖父(忠統の父・長幹)は貴族院議員でございましたので、当主自らが礼法を一般に教授するということはございませんでした。しかしながら戦後、日本人が本来持っているはずの「相手を大切に思うこころ」が薄れ始めた時代背景のなかで、こころの荒廃を憂えて先代忠統は「一子相伝」「お止め流」の封印を解き、惣領家に伝わる古文書をもとに、宗家という立場で礼法の普及活動にあたりました。あらゆる教えに関して、基本的な理由を含めながら体系立てて説いていくことには様々な困難があったのではないかと思います。


──毎日伝書を7、8時間読んだこともあったという記述をインタビュー記事で拝見しました。礼法における伝書の重要性について教えていただけますか。


伝書は変体仮名(くずし字)で書かれているので、初めて見たときは、全く読むことができませんでした。何とか少しでも早く読めるようになりたい、という気持ちから家族との旅行中は、プールサイドにも古文書のコピーを持っていくほどでした。


読めるようになると、次は意味が理解できないといけないので、まずは書いてある直訳の意味を覚えました。次にもう1周読んだときには、表面的に書いてあることだけでなく、実際にそれは何を言わんとしているのかという、書き手の深い意味を読み解く。すると、さらにさらに、深い疑問が湧き、古文書の魅力に取り憑かれます(笑)。


今度それを人に説くときには、何をポイントに伝えていくべきなのか、実生活のどの部分につなげていくのかということも考えていきます。「先代がもし今生きていたら、この箇所の意味を質問したい」ということが、人に教えれば教えるほど出てきます。


古文書にくずし字で書かれているものを、現代の文字に翻刻すれば誰もが簡単に読むことができます。しかしながら、当時の人の手書きの文字で読むと、何を言おうとしていたかを文字から汲み取ることができるのです。師範になると古文書を読むというカリキュラムがあるのですが、これからも無くすことなく続けてまいりたいと考えています。



〇稽古について


──礼法の本質は相手に対する「こころ」にあるとホームページでも記載がありますが、教えている相手が「こころ」や作法の本質を理解しているか否かは、どういうところで判断するのでしょうか。


お教室を訪問し、ドアを開けた瞬間に全てのクラスの空気が異なります。受講生のこころが一つになって、迎える準備に時間をかけてきてくださったクラスは、入った瞬間に温かな空気が感じられるのです。

学生生活でも同じことがあるかもしれませんが、リーダーのような、お世話役の方がいらっしゃると、グループはまとまりやすいと思います。ただし、それも行きすぎてしまうと、かえって和が作りにくくなってしまうこともあるでしょう。何事も、無理ではなく、自然に和ができることが望ましいのです。それには、慎みのこころが欠かせません。

慎みといえば、だんだん学んでいくうちに自分では無意識に「私はこれを理解しています、身につけています」という言動が目立つことがあります。これを小笠原流礼法では「前きらめき」「利発だて」などという表現をいたします。自分がわかっていることを少しでもひけらかしてしまうことは他者に対して失礼である、と心得ておかねばなりません。そのことにかかわる教え歌が、そちらに掛かっているお軸に記されています。

『無躾は目に立たぬかは躾とて 目に立つならばそれも無躾』とあります。躾が身についていない人は相手に対して失礼であるが、少しでも作法を身につけていることを目立たせてしまう言動も相手に失礼である、という意味です。上級クラスになると、「私は道半ばのときには、自分が知っていますということが前に出てしまっていたような気がする。でも本当はそれをひけらかすのではなく、慎むということが大事なのだと分かりました」という発言が増えてくるように思います。

──「わかっている」という気持ちを慎むことができないうちは、こころが身についていないわけですね。

はい。慎みの大切さは、自分自身で気づかないと身につきません。今日いらした皆さまは、お世辞ではなく清潔感があって可愛らしいお姿、と拝見しておりますが、以前、あるクラスで出会った受講生のお話をご紹介したいと思います。

特に目元が強調された濃いめのお化粧で、胸元が深く開いたお洋服をお召しのAさんがいらっしゃいました。その後、数ヶ月してから再度そのクラスを訪れたとき、清潔感あふれる素敵な女性が私の目の前の席に座っていらっしゃいました。なんとその女性は、前述のAさんだったのです。

教室が終わってから「素敵な女性になられましたね。変化なさるきっかけはあったのですか」と尋ねると、「自分の姿を(クラスの担当の)先生は決して否定なさることはありませんでした。ただ、お稽古を重ねていくうちに、自分の出向く場所や目的に応じた装いに関して、気づくきっかけをいただくことで変わったのだと思います」と答えてくださいました。

自分の気づきがなければ、どんなに周囲から強く注意されても、接極的に変化しようとは思えないものです。このように、指導者は強制するのではなく、気づきの機会をできるだけ増やすことも欠かせないと思っています。


──実際の場面で臨機応変に対応できるようになるために、稽古ではいわゆるロールプレイングのようなことは行うのでしょうか。その他、稽古の実際の流れを具体的にご教示ください。


たとえば和室でお座布団が並んでいる中で、1人だけ立って移動しなければならないとき、最も丁寧な方法、略式の方法など、あらゆる状況を想定して練習いたします。襖の前でお扇子を出してご挨拶して和室に入り、自分の席に正座する。あるいは、床の間の掛け軸や花を拝見してから席につく。床の間にある三方をお客様役の人の前に運ぶ、などという所作もございます。切り取ったシーンを練習するのではなく、入室から退室までの一連の動作を学ぶ機会は、大変有効的です。

和室の場合は少し自分の向きを変えるだけで、上座と下座が瞬時に変化することがあるのです。それを頭で考えてから行動しているときは、不自然な「間(ま)」が生まれてしまいます。総合的に動作を練習するお稽古は、このような自分に足りない部分を身をもって理解する機会にもなります。

──2016年6月27日のブログで「程」についても述べておられましたが、「程」は人それぞれの部分が多く抽象的で教えにくい部分だと思うのですが、稽古ではどのように伝えていますか。


おそらく、"ほどをしる"のところだと思うのですが、何事も「ほどほどにね」と普段から言いますよね。最初に基本を身につけることは大切なのですが、こうでなければならない、と一辺倒な思いに執着することもあってはなりません。つまり、俯瞰してものごとを判断することが礼法にも求められているわけです。


臨機応変でありたい、と頭ではわかっていても、どこかで人は自分の理想とするところに準じて欲しいと思いがちです。自分が習ったことと違うことを隣の人がしていたとしても、もしかしたら、何かの理由でそうしているのかもしれない、と相手のこころに寄り添うことが重要なのです。


自分を含めて完璧な人はいないのですから、相手を自然に受け入れるには、ゆとりを持つ、すなわち「ほど」が欠かせないというわけですね。何でも適当に、好き勝手にしてよいということではなく、一緒にいる人々が不快に感じないように、行き過ぎず、足りなすぎず、ほどほどの融通性を持つことをお稽古でもお伝えしています。


──特に現代の若い人に教えるための工夫や、気を付けている点はありますか。


企業研修や学校の授業は、話を聞きたいと思う人も、そうでない人も、同じ空間に集まっています。その方々の興味があることは何であるかについて、様々な事例をお伝えしながら、表情の変化などを拝見して、探ってまいります。自己満足の講義にならないように努めることも講師の持つべき役割です。


また、新型コロナウィルスの影響でリモート授業も珍しくない世の中となり、自宅で1人で過ごす時間が増えた方も少なくないでしょう。それによって、明らかに人々の表情が乏しくなっています。もしかすると、人とはあまり会わなくてもよい、という考えが知らず知らずのうちに根付いてしまった人がいるかもしれません。


しかし、人と人との間に生まれる和の素晴らしさ、コミュニケションの楽しさを皆様にお伝えしていきたいと思えてなりません。マナーについても、特別な機会にのみ求められるものではなく、日常生活をより豊かにするためのきっかけであり、マナーを身につけ理解することで視野が広がることを若い世代の方々に積極的にお話していきたいと考えています。


幼稚園、小学生にも同様のことを感じています。この数年で、こどもたちの表情に変化が少ないのです。学校で先生にお会いしたら何と挨拶をするのか。お世話になった方には何と御礼をお伝えするのか。お友達に嫌な思いをさせてしまったときは何と謝るのか。などというように、あらゆる状況に関して、細やかに、表情も含めて考えます。こどもたちは興味を持つとすぐに取り入れてくださるので、こころを動かしながら楽しく聞いていただけるようにとこころがけています。


──2022年8月18日の「同じことを学んでも」という題で書かれたブログを拝見したとき、礼法も「伝える過程において指導者によって個性があることも必要」という記述が印象に残りました。礼法を教えるにあたって、指導者が個性を出せるところ、絶対に守らなければならないことについて教えてください。


たとえば、先ほどご一緒に行った3種類のお辞儀のかたちは、基本的に変わることはありません。ただし、3種類の中でどのお辞儀を用いるのか、という事例については、指導者によって異なることがあるでしょう。


また先代が門弟たちと食事をした折、最後にお茶漬けが出されたときのことです。先代の箸先は最後までセンチ程度しか濡れなかったことに感激した、という話を聞いたことがあります。小笠原流礼法には「箸先五分 長くて一寸」という、箸先の汚れは1.5センチから3センチ以内に留めるという教えがあるのですが、まさにこの教えを体現したといえます。だからといって、簡単に誰もができることではありません。


個性に関しては、礼法の指導をするなかで遊びごころを忘れないでいただきたい、ということを講師にたびたび伝えています。ユーモアやかわいらしさがなければ、人の魅力は生まれにくいものです。講師に人間らしさのようなものが感じられると、親近感を持つきっかけにもなります。完璧であることも素晴らしいですが、完璧でない部分に相手の優しさを感じることもあります。堅苦しさを和らげる温かさを指導者には持ってほしいと思うのです。


──ご著書『美人の<和>しぐさ 大和撫子のマナー』を拝読した際、序盤で読者に疑問をもって考えることを自然に促し、押し付けないような心地良い言い回しをなさっている印象を受けました。普段の稽古でもこうした言い回しの工夫をされていますか。


語尾の選び方は、指導者にとって大切なことです。たとえば、「お味噌汁のお椀とご飯のお茶碗は、右左、それぞれどちらに置くのですか」という質問があったとします。「お味噌汁は食べる人から見て右側、ご飯は左側に置くことが基本です」と言い切ることも必要です。「ただし、左利きの方は、それぞれを反対の位置に置いてもよいのです。なぜなら、聞き手側に汁物があるほうが危険を回避しやすいからです」などと、あらゆる可能性をお伝えすることも欠かせないようにこころがけています。


押し付けられるような表現に、人はこころを傾けて聞きたいとは思いにくいものです。できるかぎり相手の気持ちに寄り添いながら、相手を型に当てはめてしまうことにならない表現を用いたいと思っています。


──指導者の方に敬承斎さんから指導の仕方を教える講座などはあるのでしょうか。


はい。学んでいた受け身の立場から急に伝える立場になるとき、単にノートに記したことを伝えるだけでは説得力に欠けますし、指導者としては不十分です。特に研修の講師になる方々には、かなりの時間をかけてトレーニングをする講座もあり、私の講演や研修の場に同行いただく機会を作ることもございます。


──日本の年中行事や季節感に対して『日本人のこころとかたち』などのご著書で多く触れていらっしゃり、大切にされているのを感じました。季節を楽しむ日本の文化・こころを稽古でもお伝えになるのでしょうか。


年中行事に関しましては、力を入れてお伝えしております。昔は今と比べて、自宅での室内着と、お出かけ用の外出着がかなり異なっていたように思います。決して今が悪いといっているわけではありません。ただ、晴れ着ということばがあるように、装いは人々の暮らしの中で大きな意味がありました。


ハレとケ、ということばをお聞きになったことはありますか。ケの日とは、日常を指します。農耕民族が中心であった日本人は、ケの日は仕事を一生懸命にし、食事も質素なものを食べていました。一方、ハレの日は非日常を指し、特別な装いで、ご馳走を食べて日々の暮らしに感謝し、祝う日であったのです。つまり、生活にはめりはりがあったともいえましょう。このような、生活のめりはりが大切です。めりはりがあることで、四季のうつろいを楽しみ、周囲への感謝の念も自然と育まれたのです。


年中行事、中でも代表的な五節供は1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日です。季節の変わり目は、天候によっては農作物に多大なる影響を与え、人々の健康も不安定でした。たとえば5月は、現代の暦からすると梅雨の季節です。大雨が降り続けば秋の実りは期待できませんし、湿気から物が腐りやすく、体調を崩す人も多くいたことでしょう。こうしたことがないようにと、5月5日に向けて神様にお供物をして、家族の健康や無事にお米などが収穫できるようにという願いや祈りを捧げたのです。


祝いの前提には、自然や周囲の人々への思いが存在していたことがおわかりいただけたのではないかと思います。たった一輪の花だけでも、季節感を生活に取り込むことがこころにゆとりを育んでくれるのです。


──『伯爵家のしきたり』で語られている「糸くずの教え」(注)のお話が印象に残りました。同様に、稽古のなかで丁寧にものごとに打ち込む癖をつけさせるようなことはされていますか。

(注)敬承斎氏の祖母が曾祖母から受けた教えで、短気な性格であった祖母に対して悪さをしたお仕置きとして、叱るのではなく糸くずの塊を解かせた。


私自身もそうなのですが、慌ただしく過ごしていると、ふと立ち止まって考えることを忘れてしまいます。すると、こころの輝きも失いがちです。お稽古にいらっしゃる方から、「教室内の非日常の空間の中で過ごす時間が大切である」「お稽古によってこころをリセットできる」というお声を伺うことが少なくありません。自身を振り返る時間でもあるのでしょう。教室での静かな時間が、もしかすると祖母が体験した「糸くずを解いているうちにだんだんとこころが静まっていった」ということに重なるのかもしれません。


誰にでも悩みはあるものです。ときには、大きな悲しみを胸に抱いている方がいらっしゃるかもしれません。そのすべてを解消して差しあげることは難しいですが、少しでも穏やかな空間を作りながら丁寧に日々を生きることの素晴らしさをお伝えできればと思っております。


──Wendy-Netのインタビューに「見返りを求めない無心が礼法の基本」だとありました。無心のこころを持つのは難しいと思うのですが、どのように生徒さんに伝えているのでしょうか。


祖母は私が幼い頃から、無心の大切さについても説いてくれました。とはいうものの、なかなか無心になることは難しいものです。たとえば、親友が就活において第1志望の企業に合格できなかったとします。そのような、お友達の悲しい気持ちに寄り添うことは比較的難しくないと思います。しかしながら、自分の第一志望に、ご自身は合格せず、親友のみが就職できることになったとしましょう。その状況で、どのような思いを抱かれるでしょうか。親友の合格をこころから、ともに喜び祝うことができますか。


隣の芝生は青い、と思うのではなく、自分にできることの中で喜びを見つけることを祖母は教えてくれたのです。それは自信を持つことです。この自信とは、何かをひけらかすような表面的なことではありません。それが多くの人から評価されなくても、自分が打ち込めること、興味を深められることに出会い、努力することで生まれる自信です。


人は自分の目標に向かっているとき、他人を羨む時間などないものです。こころにゆとりを持つためにも「自信を持つこと」が重要であると、たびたびお稽古でも触れています。相手からの見返りを求めずに思いやりを持つこと、すなわち無心にも繋がると考えているからです。年齢を問わず、無心についてもお伝えしていきたいと思います。



取材中の写真



〇ご自身と今後について


──従来の伝統芸能的なわざの伝承とは異なる学校教育的なわざの普及には、どのような意義があるとお考えでしょうか。


私たちは2本の柱でお伝えしております。まず1つ目の柱は、家元制度のなかで入門から師範までを育成し、古来からの教えを次世代へと伝承していくことです。この中には、年中行事に関する儀式、結婚に関する儀式など、伝統に基づいた様々な儀式も含まれます。これらは、現代の社会生活にそのまま活かすことは難しいこともありますが、だからこそ意味を持つものであるともいえましょう。


2つ目の柱は、小笠原流礼法の教えをもとにしたビジネスマナーの研修です。礼法に理由があるように、ビジネスマナーにも理由が必ず存在いたします。それを理解し、身につけ、活用できることで、より豊かな人間関係を育むきっかけが生まれると思います。正式なわざのみならず、略式なわざ、すなわち現代生活に応じたわざをお伝えし、普及させる。それによって、すべての言動にこころが存在することの大切さを理解していただくきっかけとなり、研修の意義にもつながるのではないかと考えています。


──約700年前に確立した小笠原流礼法が、生活が欧米化した現在でも有効である理由をどのようにお考えですか。また、今後さらに長く小笠原流礼法を伝承していくために必要なことはなんでしょうか。


700年前も今も、「他者を大切に思うこころ」は普遍的に変わることがございません。その「こころ」をどのような「かたち」を通じて表現していくことが好ましいのでしょうか。それは、時・場所・状況に応じた、臨機応変で自然な美しい言動を各々の的確な判断をもとに行うということです。


それには、ひとつでも多くの引き出しをこころの中に持っておくことが望ましいのです。それぞれの引き出しに、先ほどからお伝えしている理由が一緒に入っていると、どの引き出しの心得と、どの引き出しの心得を組み合わせると望ましい行動ができるのかという答えを導き出すことができます。


人は決してたった一人で生きていくことはできません。だからこそ、周囲への感謝の気持ちと素直なこころが己の幸福感へとつながっていることを忘れないでいただきたいのです。雑務に追われ、忙しいなかでも少し立ち止まり、感謝の念を育むゆとりを持つことが、これからの時代、ますます重要ではないかと思えてなりません。


幸せは、自分のこころでしか感じることはできないのです。相手も、自分も、ともに笑顔でここちよい時間をともに過ごす。礼法がその一助になりましたら、光栄に存じます。これからも精一杯、こころを込めて礼法をお伝えし、普及活動に努めてまいりたいと存じます。



〇編集後記


加藤 

インタビューを通して、小笠原流礼法にとって特に大切なことは「その形になった背景、理由を知る」ことであると感じました。そしてこれによって、臨機応変に対応できるようになるだけでなく、小笠原流礼法を時代に合わせ形を変化させながら後世に伝えていくことができているのだと学びました。


福 

昔も今も変わらないのは他者を大切に思う心であるという点がとても印象に残りました。様々なことがデジタル化していったり効率化が重視されている現代において、その心を忘れてしまうような瞬間があるなと感じます。そのような時代がだからこそ、一呼吸を置いて、他者を思う気持ちや感謝をする気持ちを持つことが私たちが一生涯を豊かな時間にしていくために大変重要なことであり、そのことを小笠原流礼法は現代に伝えていっていることがわかりました。


折笠

小笠原流礼法のお稽古では礼法の動きだけでなく、他者の心に寄り添い、思いやりをもって教えているという印象を受けました。身体の振る舞いだけでなく心までも穏やかに成長させてくれる小笠原流礼法にとても興味を持ちました。


平塚

日本の伝統的なものである小笠原流礼法ですが、現代にも通用するものがあり、また小笠原流礼法自体も現代に合わせて変化をしているという点が印象的でした。人間関係が希薄になりつつある現代において、相手を思いやる小笠原流礼法の教えは非常に価値のあるものだと感じます。


和田

こころに重きを置いた教えに小笠原礼法の本質を感じました。振る舞いだけではなく、その根底にある他者を思うこころや背景を知ることが大切であり、それはいつの時代も変わらないということ、そして、不安定な現代社会を生きる私たちが、少しでも心にゆとりを持てるようなきっかけが礼法のなかにあるということを、教えていただきました。


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