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己を感じ、考え、探す

  • 執筆者の写真: ゼミ 横山
    ゼミ 横山
  • 1月16日
  • 読了時間: 12分

更新日:3月25日

ー合気道佐久道場遠藤征四郎氏インタビュー


郡一正、宮藤幸太郎、田村大空、吉岡初


我々は合気道家の遠藤征四郎様にインタビューをさせていただきました。合気道の型の身体感覚やその指導法、合気道における精神面の向き合い方などについてお話を伺いました。その合気道の精神は我々に人生において大切なことを教えてくれます。



遠藤征四郎さんのプロフィール


(ご本人提供)
(ご本人提供)

1942年(昭和17年)生まれ。長野県佐久市出身。公益財団法人合気会本部道場指導部師範。八段位。1967年、合気会本部道場に入り合気道の開祖 植芝盛平に師事。現在、定期指導のほか、毎年国内20回、海外15ヵ国で講習会を開催するなど、合気道の紹介と普及に努める。

1993年、故郷の佐久市に合氣道佐久道場を設立。2015年、日本武道協議会より武道功労章を受賞。著書に『響きと結びー私の求める合気道-』(廣済堂出版、2013年)がある。(遠藤征四郎師範 情報サイト 、江東区合気会 ウェブサイトより)




合気道との出会いと稽古


──大学生時代に合気道に出会われたということですが、数ある武道や芸術の中からなぜ合気道を選ばれたのですか?


理由は特にありませんでした。新入生として校内を歩いていた時に大学のクラブの部員に引っ張り込まれたのがきっかけです。当時は合気道は全国でもあまり知られておらず、大学で合気道のクラブがあるのも関東ではたったの14ほどでした。合気道だけでなく世界民謡研究会というクラブにも入っていたなあ。


──生徒の個性に合わせて教え方を変えていらっしゃいますか?

 

特に変えていません。ただガツガツじゃなくて静かにゆっくりやることを大切にしています。ガツガツやってもセンスが磨かれるわけではないから。 静かにゆっくりやることで自分を見つめることができます。そして、相手のことも感じられるようになります。


私はチェコに行ったとき、体格の大きい人に両腕を突き上げられ、体が宙に浮かされた状態となったことがあります。彼らは喜んでいたけど、私がこのとき腕の突張りを止め肘を曲げると、彼らは崩れ、倒れていったんです。


「手の内を知る」「手の内をみせない」という言葉があるけど、手の内は攻められると、とても弱いポイントだとこの時如実に知ったんです。私の重さが、彼らの手の内に乗ったということです。私のやったことは一瞬だから、やろうとしてもほとんどの人はできません。だから自分を見つめ、自分は今何をしているのか、相手に何が伝わったのかを知る、観る。感性を磨くことなどを強調して教えています。


──形を習得するために遠藤さんはどのような向き合い方をされていますか?

 

形を習得するのは難しいことです。覚えることはできるとしても習得といえるのは覚えるより、上のレベルだと思います。


稽古を始め、進めてゆくのに、「守・破・離」という経過があるといわれています。これは、ある個人が稽古の過程で「形」と関わってゆく時の関わり方を、時間的契機を導入して捉えた概念です。稽古ができるうちはこの概念に沿ってゆきたいと考えています。


「守」は、忠実に「形」を守って芸の基本を身につけてゆく段階です。いわゆる模倣、学習、鍛錬の段階です。しかし、いかに忠実に行っていても、長く行ってゆくうち、その人の資質や経験からさまざまな疑問や、身にそぐわないところが出てくることはやむを得ません。「形」を身につけ、模倣、学習、鍛錬の段階が深まれば、当然そこには葛藤が生じてきます。そして、自己の身につけた「形」を破壊し、形破りしたいという欲求が己れのうちより湧き上ってきます。これが「破」の段階です。


さらに「破」はいつまでもそこに留まっていていいという段階ではありません。それは創造的精神に支えられた行為でないからです。「形」破りの行為が深まるにつれ、虚しい気持ちが起きてきます。自分は「形」を破りながら、しかも既存の形に囚われているのです。


そのような囚われから解放されて、真の自由の深みからなされる演技、稽古をしたいと思います。彼はそう思います。その願望が成就した段階が「離」です。それは時が熟して新しい形の創造がなされる段階です。そこでは修業者は、もはや「形」を忘れ、しかも形に適った行為をしているのです。


──合気道は世界中に浸透していますが、国によって違いなどはありますか?


合気道は150ヶ国以上に広がっているけど、特に違いはありません。指導する人によって、何をやろうと、どんなやり方をやろうと、合気道と名乗ればみんな合気道です。私は私の合気道だけが良いと思わないから、「私から聞いたこと、見たことに疑問を持って下さい」と言っています。そして、「自分が良いと思う合気道を探して下さい」と。これは何事も、自分で行って、自分で感じて、 自分で考えて、探すことが大事だと思っているからです。


──外国人に教えるときに、言語の壁があると思うのですが、どのように指導されているのですか?


言語の壁はあったけれども、大して気にしなかったです。もちろん通訳できる人が居ればお願いしました。「形」稽古は約束稽古だから、何回も見せて、沢山の人と触れ合っていきます。私がそのようにしていると次々と受身をとりに来ます。私のやり方が柔らかく、やさしかったからでしょう。形には名が付いているから、形を見せて名を告げれば彼らは同じ形をやります。


私は「持たれた時の形」「打たれる時の形」など、どんどんやって、沢山の人を感んじてきました。「この人はこういう人で、この人はこういう人だな。うーんちょっと私の今のやり方では伝わらないな。ではこの人とこの人は、どこが違うんだろうか......」。相手を知り、相手との関係、接点、気持のつながりを感じながら感性を磨いてゆきます。感性で身に付けたものでないと本当の自分のものにならないのです。


──実際に様々な人と触れ合うことで自分自身の経験値として身に付くものはございましたか?


私は経験からたくさん学びました。身体に合気道の形を叩き込んで、それから力を抜くことを学びました。力を抜いて柔らかく稽古してゆくと、今度は新しい動きがどんどん出てきます。動ける可能性が広がります。相手と触れ合いながら試してみたりする中で、「おっ、いいな」って感じるときがあります。そうすると、やっていることに確信がもてます。 自信がついていきます。私はそういうやり方で沢山の人に触れてきました。合気道創始者は「一万人の人と稽古したら名人になれる」という言葉を残しています。


(ご本人提供)
(ご本人提供)

合気道の身体感覚


──遠藤さんが相手に技をかけるご指導をされている動画を拝見したところ、動かない相手に対して「ゆるめる」ことが重要であり、その際の心の問題が非常に難しいということでした。この時、精神と身体の二つの側面をどのように捉えられていますか?


私がよく言っているのは「自分を見つめなさい」ということです。つまり、「今自分は何をしているのか感じなさい」ということ。動きを覚えてしまったら無意識に自分の体がどのように動くのか知る。それをしっかり感じてゆくことが大切になります。


合気道の稽古には相手がいる。自分が何かの技をしている時、相手が応じてくれない時がある。強くやれば相手は恐怖や、強い痛みを感じ、当然気をひき、体は硬くなり、緊張する。


この相手との関係──精神的、身体的関係を知らなければいけません。これを知らなければ次へ進むことはできない。流れをつくり直さなければならない。私はこの時「ゆるめる」と言って、意識から無意識へ、硬さから柔らかさへ、緊張から弛緩へ、強さから弱さへ自分を変えることを求めています。自分を一瞬捨てることを「ゆるめる」と言っている。


合気道の開祖は『合気道神髄』で「谷川を流れる水を見て千変万化することを知りなさい」と言っています。変化できるのには、水の様でなければいけない。


また沢庵禅師は「理の修業(心の修業)と事の修業(技の修業) は車の両輪のように、二つそろって行ってゆかなければならない」 (『不動智神妙録』)と言っています。

 

──「力の流れ」という表現を聞いたことがあるのですが、それはどういった感覚なのでしょうか?

 

私は「力」というより「気」と言っている。「気」の流れ、と。力は強いものだとしても実は大したものではないです。例えば、相手と手の平を合わせて押してもらう。相手が相当強い力で押してきても、こちらの手をタイミングよく、ちょっとだけずらせば、相手の力の方向を変えることができます。このお互いの力の出し入れで、相手の力を捌いて自分に有利に導いてゆく。この時に私は「力」より「気」で相手を導いている。この時の次々の変化を、私は気の流れと言っています。


──形を実演する中で感覚を覚えていくことで頭で考えなくても気を感じられるようになるということでしょうか?

 

形を覚えてしまったら徹底的に気を集中し、柔らかく静かに稽古を続けてゆけば誰でもある程度は感じられるでしょう。


──書籍の中に、何十人もの人に、一気に技をかけていくと、無意識に近い状況というか、スポーツに例えると「ゾーンに入る」とか言うと思うんですけど、そういう感覚になられると書籍に書いてあったと思うんですけど...

 

同じ形を決まった動きで続けていきますが、相手は次々と来るから、こちらは気を集中して、自分のやり方で対応していきます。その時は 何も考えない。考える時間もない。始めはやることに気持ちを集中して、やっていますが、それも忘れてしまい、体は無意識に動いています。 時々我に返る。そのような時、これが無心の状態かなと。


──無心の状態だからこそ、できることってありますか?

 

できる事は沢山あるでしょう。できるようにもなるでしょう。沢庵禅師は「技の稽古を努めつくしたら、何にもとらわれず無心になれる。様々な技を徹底的にやって一に帰するもの、すなわち無心がつかめる」と言っています。私は、心静かに稽古しなさい、そうすれば動いている今の自分、相手、お互いの関係を知ることができると言っている。そしてどこの稽古でも、私の願っている静かで、柔かい稽古を楽しんでいると思ってます。


(ご本人提供)
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合気道との向き合い方


──合気道には筋力や高い身体能力も求められると思います。何かトレーニングなどはされているのですか?


私は東京へ出てくるまで運動好き一家で育ち、農業で体はある程度できていました。合気道部に入って基本的な体力を付けることはやっていました。合気会に入ってからは、家でテレビを見ながらスクワット、腹筋、背筋、木刀振りをほぼ毎日やっていました。


30歳のときある師範と出会った。身長も体形も私と同じくらい、特に筋肉を鍛えたという体ではなかったです。この師範との出会いは、脱臼して手術した後の時期でした。ギブスをして師範の稽古を見学していました。稽古後、喫茶店へ連れていかれた。この師範の技は柔らかいが鋭いことで知られていました。お話しするなかで師範は「今まで10年間稽古してきたうえで、片腕でどう闘うか」と私に問いかけられた。


私はもちろん答えられない。師範の稽古にしか答えはないと思い、ギブスが取れてから毎週1時間、その師範が亡くなるまで続けました。週一時間、一回だけ。それ以前は、力強く、はげしくやっていれば良いと思っていて、師範とは大ちがいの稽古でありました。師範は「筋肉を付けたら邪魔になる」とおっしゃった。それから私はスクワット少しぐらいで他はほとんどやっていないですね。「筋肉は邪魔をする」の意味は後で判りました。力を抜けと言われた時、体の使い方の感覚が違うことに気付きました。筋力に頼っていたのが、柔らかさ、重さに変わる。水が満タンに入った袋を持ち上げるのは難しくない。袋の中に空間があると水が動いて持ち上げるのは大変。人間の体も水袋だから同様です。


──最後に、遠藤さんの合気道家としての個性はどのように生まれたものなのですか?

 

それは難しい問題だね。合気道は武術の一つで、習い始めは、皆強く、はげしく稽古していれば良いと思ってしまう。私は途中でそういう稽古を疑問に思い、先人の残した武芸についての沢山の言葉と出会い、それらの意味を探りながら稽古をしてきました。


私の稽古は先人の残した言葉を、体の動き、相手との関係にどう生かすかに沢山時間をかけてきています。合気会に入ってすぐの頃、『虎の巻』(※)や禅関係の本に出合ったことが私に学ぶことの大切さ、先人の教えを謙虚に学んでゆく大切さを教えてくれたと思います。


※ 『虎の巻』伝説的な武術の達人鬼一法眼が源義経に伝えた兵法書とされる。次のような言葉がある。

来たれば則ち迎え、去れば則ち送り、対すれば則ち和す。

五五の十、二八の十、一九の十、是れを以って和すべし。 

虚実を察し、陰伏を識り、大は方処を断ち、細は微塵に入る。

活殺機にあり、変化時に応ず、事に臨んで心を動ずることなかれや。


一番大きいのは、合気道創始者に出会ったこと。「神の化身」と言っている方もいるように白髪、白髭、背は低いが背筋はすっと伸び白づくめの和装姿の神々しさ。眼光は時に鋭く、時に慈愛に満ちて、お会いしているうち、開祖の側にいて修業しよう、少しでも近づこうという欲が生まれました。私はそんな欲のかたまりでした。そこから、次第に合気道家としての私が出来上がったのだと思います。


(ご本人提供)
(ご本人提供)

編集後記



出会いによって自分の人生があり、その出会いから知ったことを鵜呑みにせず、自分で考えて自分を見つめることの大切さを、遠藤さんから教えて頂きました。僕はもうすぐヨーロッパへ一人旅をしに行きます。そこでは新たな出会いが待っています。その出会いから知ったことや感じたことをただ鵜呑みにせず、自分の頭で考えて、自分を見つめることを常に心がけて旅を楽しもうと思います。今回の取材を通して遠藤さんと過ごした時間は、自分の人生にとってかけがえのない貴重な時間でした。貴重な体験をありがとうございました。



宮藤


伝統を大切にするという言葉もあるが、伝統もひとつの壁であり、壁を破る人が、新しいことをつくっていく、という言葉がとても印象的でした。また、遠藤さんがインタビュー中何回も言っていた、「自分を見つめなさい」という言葉もとても印象に残っています。その時の相手に対してどういう関係が起こっているのか知り、自分が動いているときこそ何をしてるのかを見つめ直す、今回学ぶことができた「合気」の精神は、現代上手に生きていく上で何よりも大切に考えるべきだと感じました。



田村


「自分を見つめること」が印象に残りました。ダンスなど他の分野でも通づるところがありますが、無意識に行える動作はそれについて考えることなく流れ作業のようにこなしてしまいがちです。しかしながら、そこで一歩立ち止まって見つめて新たな発見を得ようとする姿勢は必要な過程であると感じ、今後に活かしたいと思いました。そして、決まりきったものの中に収まるのでなく、そのさらに先にある自分だけの価値観や個性を見つけ出すことは他の芸術や武道はもちろんのこと、人生全体でも非常に重要なことであるように感じました。



吉岡


今回の取材を通して、稽古の中で得られるさまざまな学びと向き合い、新たな事に常に挑戦していく姿勢を持つことの大切さを学ぶことができました。相手と一体になることで、自分自身を見つめ、探し、更に成長していく。この過程を繰り返すことで、遠藤様の今の稽古があるということを、実際にお話を聞き、実感することが出来ました。遠藤様のお話は合気道に通ずるだけでなく、自分の人生にも繋がるお言葉が多く、自分と向き合うきっかけにもなりました。

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