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  • 執筆者の写真ゼミ 横山

ダンサー・三東瑠璃の身体観

更新日:2023年4月18日


                   平塚風里



はじめに


先日、ダンサー・三東瑠璃さん主催のダンスカンパニー<Co.Ruri Mito>による、『ヘッダ・ガーブレル』を拝見しました。『ヘッダ・ガーブレル』はノルウェーの劇作家イプセンによって1890年に書かれた戯曲であり、三東さんはこの戯曲をダンスで表現していました。私は、この戯曲を言語ではなく身体で表現すると言うところに新しい発想を感じ、三東さんの身体観を知るべくインタビューをさせていただくことにしました。インタビューには、<Co.Ruri Mito>専属写真家のマトロンさんにもご一緒していただきました。インタビューの前には、<Co.Ruri Mito>の稽古の様子も見学させていただきました。



三東瑠璃 RURI MITO


1982年東京生まれ。5歳からモダンダンスを始める。2004年日本女子体育大学舞踊学専攻卒業。2004‒2010年ダンスカンパニー<Leni-Basso>所属、その後フリーランスとして活動。スウェーデン王立バレエ団にてゲストダンサーとしてWim Vandekeybus『PUUR』、Sasha Waltz『Körper』に出演。またDamien Jaletと名和晃平による『VESSEL』に出演等国内外で、ダンサーとして活躍。2017年に土方巽記念賞を受賞。同年、<Co.Ruri Mito>としてグループ活動を開始。2019年<ASIAN KUNG-FU GENERATION>ボーカルの後藤正文氏とコラボレーション作品『MeMe』を発表。2020年に文化庁芸術祭新人賞を受賞。2021年6月公開石川慶監督映画『Arc』で振付を担当。2020年度より公益財団法人セゾン文化財団フェローII。(引用:Co.Ruri Mito http://rurimito.com/


(本人提供)



マトロン〈本名:城戸晃一〉写真家・映像制作者

東京都生まれ・育ち。国際基督教大学在学中に渡英。ロンドン大学City校にて哲学を修めた後に、情報科学芸術大学院大学にて映像表現を学ぶ。卒業後、写真家の中平卓馬氏に親炙し写真を学ぶ。2020年よりCo. Ruri Mito専属写真家。(参考:Co. Ruri Mito 2002 『ヘッダ・ガーブレル』公演パンフレット)



Co. Ruri Mito http://rurimito.com/

三東瑠璃主宰のダンスカンパニー。個々の身体の特徴を深く追求しながら時間をかけて質の高い作品の創作を目指している。



稽古見学の感想


お稽古には、三東さん、マトロンさんの他に、5人のダンサーがいました。お稽古の雰囲気は厳しすぎず穏やかで、しかし真剣な様子が伝わってきました。


まずは、ユニゾンのお稽古を見学させていただきました。しかしそれは、私が考えるユニゾンとは大分イメージが異なっていました。私が考えるユニゾンは、首や身体の向き、タイミングがピッタリ合っていて、同じ動きをすることで迫力が出るようなものです。


しかし、三東さんのユニゾンは、ダンサーの動きがピッタリ揃ってはいませんでした。三東さんは、ダンサーの動きを揃えるようなことはせず、「この動きに何かをつけてほしい」といったゆるやかな指示をして、それぞれの表現に任せるような指導をされていました。ましてや、首を上げるタイミングをずらすように指示をし、あえてバラバラに見せているような場面もありました。にも関わらず、それぞれが動く中にも、ふと繋がって見える瞬間がありました。ピッタリ揃えることよりもさらに先の、研ぎ澄まされた感覚がありました。


三東さんは、今までとは違う、新しい形のユニゾンを生み出していると思います。後ほどインタビューでもユニゾンについては伺いました。


次に、コンビネーションのお稽古を見学させていただきました。コンビネーションは、2人でやるものと、5人全員でやるものがありました。5人のコンビネーションは、4人が生み出したエネルギーによって、1人を動かしていくというものでした。


先ほどのユニゾンとは違い、そこに振付はなく、ダンサーが身体を使いながら動きを生み出していました。身体から出てきたエネルギーに逆らわないその動きは、確かに5人いるけれど、一つに見える時もあり、それぞれの関係性を見ているようでした。三東さんの助言を受けながら、だんだんと生み出した動きが形になっていきました。


あらかた動きができたら、それを研ぎ澄ます作業に入ります。そこでも三東さんが指導をされるのかと思ったら、そのタイミングでインタビューを受けてくださるというのです。これから先の作業は、三東さんは介入せず、ダンサー達のみで行うようです。私がインタビューをしている最中も、ダンサー達はずっと会話をしながらその動きを繰り返していました。

 

三東さんの指導は、ただ全てを指定するのではなく、ダンサー達のなかから生れてくるものを尊重している印象を受けました。次は、そんな三東さんの身体観について、インタビューをすることでより深く探っていきたいと思います。


(本人提供)



身体の可能性


ー三東さんは、身体にはどのような可能性があると思いますか?


三東:身体って、何にでもなれると思うんです。『Where we were born』という作品だったら、タコとか、水とか、その下のプレートとか波の振動とか、目に見えるものも見えないものも。でも、人間の身体だから、指は十本ってことは変わらなくて、それがノイズになって人間の身体が人間の身体にしか見えなくなってしまうことがあると思う。だから、そういうノイズを削りながら、何かになれる可能性をいつも探しています。


あとは、皆が持っている身体だけど、ダンサーとしてトレーニングを積んだ身体で表現する意味とか、個々の身体はその人しか持っていないわけだから、それぞれがその身体で表現する意味を感じられたらと思っています。


ー確かにユニゾンのお稽古では、ユニゾンだからといってピッタリ揃えるのではなく、それぞれの表現を活かしたご指導をされていると感じました。


三東:私、ユニゾンはあまりやらないんです。ユニゾンって、表向きのダンスになってしまう怖さがあって。もちろんピッタリ揃っているのはカッコいいんだけど、振付とテクニックが全面に出てしまう気がする。みんな同じお面を被ってやっているみたい。


私としては、空気感とかそれぞれの色が見えるようにしたくて。だから、個人の身体を引き出せるユニゾンを探しています。ピッタリ揃っていなくても、どこかがちゃんと繋がっていればユニゾンって言えると思うんです。それがタイミングなのか、気持ちなのかは動きによるから分からないけど。ユニゾンはまだまだリサーチ中です。



振付の難しさ


ー身体で表現をすることが難しいと感じた経験はありますか?


三東:やっぱり、振付って大変だなと思います。自由な踊りなら自分の身体を使って動けるけど、振付を渡されると、自分のものにするのが難しい。生みの親は自分の身体から出てきた動きだけど、他の人は違うから。私も他の人の振りは踊れはするけど、やっぱり「振付を踊る」ということでしかなくなってしまって、そこになんにものってないの。


カンパニーでは、振付を踊るという意識がなくなるまで稽古をするから、舞台に上がった時にはどうやってこんな振りになったんだろうって思う。自分の表現にするためには、身体に落とし込んで、どうするのかを自分と会話しなきゃいけない。振付が振付じゃなくなるまで。だから、人の振付を踊るのは、表現するってところにいくのに時間がかかる。私は、自分がその振付に何を見るのか、お客さんに何を見せるのかというところまでいかないと、つまらないと思います。


マトロン:だから、僕が思うに、彼女の振り作りはいつも知恵の輪なんです。ぐちゃぐちゃに絡まったものを、1個づつ解きほぐしてシンプルにしていくみたいに。だいたい、もの作りって足していく方向が多いじゃないですか。でも、彼女はアプローチが逆なんです。


三東:確かに、足し算をすることはないかも。だけど面白いことに、それをすると、枝毛みたいなものが切っても切っても出てくるんです。それをノイズって言うんだけど。気になるものを削いでシンプルにしていっても、更に気になるものがまた出てくるんですよね。だから、整えれば整えるほど、細かいことが気になっていく。


最初はざっくりから初めて、でもそれがどんどん形になっていくと、さっき言ったように振付はなくなるんです。稽古でやっていた5人のコンビネーションとかは、それが5人じゃなくなっていく。全体で1になっていったり、また1人づつになったりする。


ー確かに、全体で1になるというのは、お稽古を見ていて感じました。身体って、どこかを押したら他の部位が動くじゃないですか。肩を押されたらその振動で足がふらつくみたいに。それが、2つ以上の身体で起こる瞬間があって、2人以上のはずなのに、1つの身体みたいだなと思いました。『ヘッダ・ガーブレル』を見た時もそうですが、本当に動きが洗練されていて、無駄がないなと感動してしまいます。


三東:本当にね、すごい難しいのよ。昨日『ヘッダ・ガーブレル』を見返していたんですが、私がふらつきそうになった時に、ダンターたちの手が慌てて出てしまったり、視線がキョロっとしていたりってことが全くなくて。研ぎ澄まされていたね。最強で最弱って感じかも。全身から棘が出ているんだけど、その棘は全部稽古で落としてきているからすごくか細い力強さで。何かが切れたら一気に崩れ落ちてしまうような。そういう作り方をしているから、いつも1人でも欠けたらリハーサルにならないんです。


(本人提供)



言語と身体


ー『ヘッダ・ガーブレル』では、戯曲を言語ではなく身体で表現するということで、公演中も言葉とダンスが上手に絡み合っているような印象を受けました。言語と身体の関係については、どのようにお考えですか?


三東:難しいですね。私が身体の方が自分を語れるって思ったとしたら、究極、言葉は無くても良いわけで。でも、身体中心のダンスの舞台に言葉が入って来た時に、私の身体が反応したんです。きっと、見る側にもそれが起きていたと思う。言葉は全て入ってくるわけじゃないけど、それぞれ言葉によって苦しくなったり、解放されたりしたと思う。それは、私がただ踊りを披露するのではなく、生き様を見せ、悲しい、苦しい、嬉しいといった空気をつくっていたから、言葉がすっと入る仕組みができていたのかもしれないね。


言葉にすることで、自分の思いと言葉が一致することはあるかもしれないけれど、かなり少ないと思うんです。自分の語彙で思いを伝えるのは本当に難しい。よく「分かります」って言われるけど、本当に分かり合えているかなんて分からないし。自分は本当にしゃべれているのか?友達のように会話をしているこの人は本当に友達なのか?とか、?ばかりになってしまって。言葉って難しいよね。


でも、身体は嘘をつかない。この言葉も、言葉にすることでなんか嘘くさくなってしまうけれど。私自身が舞台に上がっている時は嘘がないんです。


私は舞台に立つ時にすごく緊張するの。でも最近、自分を落ち着かせて舞台に出ることができたときに、今まで見えなかった感覚とか自分を見ちゃったんです。嘘のない、私自身が持っている感情、経験、記憶みたいな言葉にはならないものが、1個の動きに宿る瞬間を作れた。心臓がドキドキするとか鳥肌が立つとか、その時に体感した、自分ではコントロールできないものを作れた。そういう、身体がもっている言葉、感覚みたいなものを繋げていくことができなくなったら、舞台に立っちゃいけないなって最近は思っています。


ーたしかに言葉って難しいですよね。実際今日、お稽古を拝見して、事前にいろいろ読んで調べて想像していたのとは違うことがたくさんありました。



戯曲をダンスにする


ー戯曲をダンスにするという取り組みを通して、どのようなことを感じましたか?


三東:戯曲ってそもそもで演劇でやるでしょう。演劇はストーリーを追って、セリフがあって進んでいくけど、私たちは役者じゃないのでそれをする必要がないと思うんです。ダンスでも、演劇のようにストーリーを追って、役をダンサー一人一人に当てはめて作ることは可能だと思うけど、読めば分かるものを、そのままダンスでやってもしょうがないと思うの。


それで、自分には何ができるかなって考えた。演劇でやれば良い事をダンスでやる意味ってなんだろうって。だから、ストーリーを追わない、シーンを作らない方法を探ったんです。


演出家さんと戯曲を読む会を重ねて、ヘッダについて考えたのね。読んでいて思ったのは、本自体も、ストーリーを伝えたい訳じゃないということ。見方によってストーリーも全然変わりそうに思えたから。


だから、ヘッダに注目することにしたの。でも、それをしたことによって、自分は思い描いていなかった、いくつもの方向性に持って行けた気がする。例えば、私は全然そんなこと思っていなかったけど、初演時に見た人から、「フェミニズムとか女性の生きづらさを感じた」って言われたの。それを聞いて、本のもつ色んな道が開けたと思った。


ヘッダは死んだけど、私は生きているし。でも、あの結末は、死んでいるかもしれないし、生きていこうっていうものかもしれないし、ただ生きた証かもしれない。それは何でも良くて、見る側が解釈して繋げていければ良いと思う。こういう風に見てほしいという作り方をしていないからね。曖昧かもしれないけど、そうすることで道が開けると思うの。


ヘッダが何をしたかは本に書いてあるけど、どうしてしたのかとか、本当にしたのかって分からないじゃない。本を読むと、そうやって自分の感情と当てはめてしまって進まないの。でも、人と戯曲を読むことで、自分の感情を当てはめながら本を読むっていう作業ができた。それをしたから、戯曲をダンスにするっていう新しいことができたのかもしれないね。


ー解釈を見る側に任せるというのは、本当にその通りだと思います。最近、「作者の意図」っていうものは必要ないんじゃないかなとよく考えるんです。ダンスに限らず映画とかも、結局大事なのはそこにあるもので、作者の意図を考えることは作品について考えることから離れてしまうような気がします。人の数だけ解釈があって、だから三東さんの作品も面白いんだと感じました。


三東:そうそう、作者が何を思って作ってるのかって分かるものじゃないじゃない。自分がこう作りたいって思った通りに解釈されることの方が少ないと思っていて。見た人の見たときの感覚は、タイミングによっても違うだろうし。だから、「作者の意図」はいらなくていいんじゃないかな。でもそう思いながらも、作者としての私もいて、私が見たいもの、感動するものをより大事にしたいって思う。求められるものとか、一般的に受け入れられやすいものを目指すんじゃなくて、迷いとかも全て込みで、私の見たいものを作ろうって思う。それをどう受け取られるかは見る人次第だけど。


マトロン:ただ、作品について見た人が自由に語るのは良いとしても、批評家みたいな人から出てきた意見に対して、「私は違う」ってはっきり言うことはあるよね。


三東:そうそう。見る人の自由で良いんだけど、決めつけられるのは好きじゃないのね。私と解釈が全然違ったとしても、そう見えたって言ってもらえるのは嬉しい。「そういう風に見えたんだ。そんな発想があるんだ、面白いな」って思うことってたくさんあるから、こっちも勉強になるしね。


けど、「これはこうだ」って言い切られると…っていうのは確かにあるかな。まあそれは、その人の言葉の選び方かもしれないけどね。でも批評家が書く場合は、そう言い切られちゃうと、見ていない人もそうなんだって思っちゃうかもしれない。それはもったいないなって思うかな。だから言葉にするのって難しいだけに、どう伝わるかがすごく重要だね。


(本人提供)



稽古


ーお稽古の見学を通して、三東さんは他者との関係性を大事にされているなと感じました。お稽古の中では、どのようなことを意識してわざを継承されていますか?


三東:とにかく稽古をたくさんするんですよ。しつこさですかね、継承することは。どれだけ自分にしつこくするのか。


マトロン:それこそ同じ人間じゃないから、他のダンサーとは考え方も違うし、言葉も違う。だから彼女は、同じ時間をいかに共有して、同じ身体をいかに作っていくかってことをしているんじゃないかな。カンパニーを立ち上げてまだ5年くらいで、伝統芸能みたいな継承をしているわけじゃないけど、5年間共有してきた時間があるから…


三東:あるから、私が居なくても稽古が成り立つんですよ。私が稽古に来ない日もあるんです。みんなだけで話をしてもらう。するとこの人達(カンパニーのダンサー)のなかでは、私との関係以上のものが生まれるんです。私がさぼっているようにも思えますが、ダンサーたちの重要な時間を作っているんです。そのコミュニケーションは私にはできないから、羨ましいんです。


マトロン:そうやって、今やっている作品も、作品のカラーは出てきていると思う。


三東:作品のカラーは出てきてるね。それって必ず単体じゃなくて全体なんです。一緒にそういう時間を過ごしてもらう。コミュニケーションなんだろうね。コミュニケーションのとり方を楽しんで学べる人達がここにいるんです。きつい稽古に耐えられる精神力があったりなかったり、これから備わっていったり。長い人たちがいるから、新しい人はそれを見て育っていく。


私最近、すごく柔らかくなったと思う。2019年は稽古中に泣いたり喚いたりしてたから。泣くのは未だにするけど(笑)。でもそうやって私自身が感情的になること、それを包み隠さず若い人達に伝えるっていうこともあります。良いことか分からないけど。


この人たち(カンパニーのダンサー)は私と違う生き物なので、私にはこの人達のダンスはできないし、羨ましいんです。だからこそ、私ができたらいいなってことをしてもらって、良い世界を見せてもらっています。


マトロン:あと、彼女はあえてメソッドから離れたところをずっとやっていたけど、メソッドをやろうって最近言いだしたり。行ったり来たりだよね。


三東:そう。トレーニングを床でやることもあるんですけど、それもやったりやらなかったり。行ったり来たりしながら、必要そうだったら取り入れたり。でもまあ、既存のものを取り入れるってことはなかなかないかな。その場で生まれたものに感動して、連ねていきたいっていうのがあるから。


マトロン:カンパニーとかシステマティックになると、最初にメソッドクラスをやって、そのあと新作のリハーサルしましょうってなる。でもこの人は昔からやってるから、そういうの飽きてるんだろうね。


三東:だって新しいもの見たいんだもん。トレーニングが必要だったらどっかでやってきてよって感じじゃない?それが好きって人もいるけど、私は自分時間で身体を緩めていくのが好きなの。



                 (本人提供)



編集後記


三東さんにお話しを伺うことを通して、ダンスについて、また身体についての理解を深めることができました。


特に、振付というもの自体がはらんでいる難しさについては、振付を主としたダンスをやってきた自分にとっては、新鮮で新しい発見でした。バレエを代表とした古典的ダンスでは、美しいとされるもの、正解が決まっていて、その形に身体を当てはめていくのがトレーニングであり、振付であると思います。ある意味では、これらは身体に対して制限をかけていると言えます。


しかし、三東さんはそのようなものを超越した、より自由で自然な身体を求めているのではないかと思います。新しいものを求める三東さんの、今後のご活躍を楽しみにしております。


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