デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション──即興演奏の彼方へ』
- ゼミ 横山
- 2024年7月16日
- 読了時間: 6分
現代心理学部映像身体学科4年
21hn115b 松本帆奈
はじめに
私は卒業論文執筆に向けてダンスにおけるインプロヴィゼーションについて学んでいます。そこでダンスという枠組みを越えて芸術におけるインプロヴィゼーションとは何かを理解しようと考え、この分野の基本の一冊とも言われている著者デレク・ベイリーの『インプロヴィゼーション──即興演奏の彼方へ』(工作舎、1981年)を読みました。今回はこの本について紹介します。
デレク・ベイリーとはフリー・インプロヴィゼーションの最前線にいたイギリス出身のギタリストです。2005年のクリスマスに亡くなりました。彼はこの本を通して、異なるジャンルのミュージシャンが用いる各々のインプロビゼーション観を検討しています。多様なインプロヴィゼーションの概念の中で、興味深いものがいくつかあったので紹介します。
インプロヴィゼーション
序文においてベイリーは、多くのミュージシャンが自分の即興演奏を「インプロビゼーション」という言葉で呼ばれることを嫌っていると指摘しています。どういうことでしょうか?
インプロビゼーションは、準備のいらないもの、熟慮を要しないもの、まったくその場限りの活動、軽薄で非論理的で、計画やメソードを欠いたものという意味を与えられている。そして演奏家たちは自己の経験から、こうした意味内容は正しくないということを知っているので、反対するのだ。(14頁)
つまり、多くの人々は「インプロビゼーション」という言葉を聞くと何の準備もしない適当な音楽演奏だと考えるけれども、実際には彼らは周到な準備や訓練を重ねた上ではじめて即興演奏をおこなうことができているのです。自分たちのやっていることを「インプロビゼーション」という言葉で誤解されたくないというわけです。
実際に、コレオグラフを踊るショーケースあがりのダンサーである私も、以前は即興で踊れることについて、それは才能であり練習を繰り返し作り上げていくコレオグラフとは違うものだというふうに見てしまいがちでした。しかし、即興こそダンスに真剣に向き合い鍛錬を積んだ者にしかできないということがわかってきました。ですから、「インプロビゼーション」という言葉によって「準備をしない演奏者」と誤解されたくないミュージシャンたちには、強く共感します。即興で踊ったり演奏したりするということは、音と身体に向き合い、感覚を研ぎ澄ませて表現を行う非常に創造的な活動であると考えます。
にもかかわらず、ベイリーはこの本においてあえて「インプロビゼーション」という言葉を選びました。その理由を、次のように述べています。
私は、この本を通じてその言葉を使い続けることを選んだ。第一にそれに代わるべき効果的な言葉を知らないし、第二に私や他の発言してくれた人たちがこの言葉を定義しなおすことができるかもしれないと希望するからである。
この言葉どおりに、この本はインプロビゼーションという概念を、「入念な準備と訓練を積み重ねた先にはじめて可能になる即興のパフォーマンス」へと再定義することを試みているのです。
聴衆
様々なミュージシャンのインプロゼヴィーション観に迫った章から、いくつかの興味深い意見を紹介します。
スティーブ・ハウ
家でやるインプロヴィゼーションと、聴衆の前でのインプロヴィゼーションは違う。聴衆がいれば、よくやらねばいけないという要請があるわけだけれど、うちでやるときはそういう要請もないし、楽な気持ちになれるから、自分の最高の音楽にまでいきつけると思う。(116頁)
ヴィラム・ジャサニー
インドのミュージシャンの多くにとっては、もっとも創造的な力がわいてくるのは、実際練習しているときなのです。そのときは本当に解放されているのだから、目の前に座っている聴衆にわずらわされないからです。(118頁)
パコ・ペーニャ
聴衆の前で演奏することは、いつだってあるていど妥協なのです。(119頁)
つまり彼らは聴衆の存在を気にせざるを得ず、本当の意味で創造的な表現を発揮することはできないということを言っています。たしかに、誰にも見られていない解放的な状態の時ほど、創造的な力が湧きます。自分でもどんなものが発揮されるか分からない即興は、どうしても聴衆の視線や要望を意識してしまうため、聴衆の存在がおおきく影響すると言えます。
しかし、ロニー・スコットは聴衆の存在に対し、彼らとは違った視点の意見を持っています。
ロニー・スコット
この種の音楽を演奏することと聴衆がいるということとを、分けて考えることなんかできやしない。だれもいないところで演奏したって、たいして意味があるとは思えない。(117頁)
前者の3人の演奏家が考える、聴衆がいることでどれだけ創造力が発揮できるかという視点ではなく、パフォーマンスに聴衆の存在は前提であるため、即興と聴衆は切っても切り離せない関係であると主張しています。聴衆の存在によって新しい創造性が発揮される可能性がある一方で、発揮することが困難であり、聴衆の存在が良くも悪くも密接に関わっていることこそが即興であると考えているように思います。これは、聴衆の前で披露するパフォーマーとして非常に重要な考え方かもしれません。
フリー・インプロヴィゼーション
フリー・インプロヴィゼーションについて書かれた章ではこう書かれています。
歴史的には、フリー・インプロヴヴィゼーションはほかのいかなる音楽よりも早くからおこなわれていた。そんなにどこにでもあったという事実は、即興演奏を支援する人、非難する人の両方をいやな気分にさせるようだ。フリー・インプロヴィゼーションは高度な修練を要する音楽的技巧であると同時に、ほとんどだれがやっても構わないものである。初心者でも、子どもでも、非音楽家でも、必要とされる技術と知性はその人にそなわったものでかまわない。きわめて複雑で洗練された活動となることもあれば、ごく単純で直接的な行為となることもある。生涯をかけた研究や仕事になることもあれば、気軽で趣味的な活動となることもあろう。(181頁)
この文章はインプロヴィゼーションの実態であると感じます。インプロヴィゼーションは誰もができることです。実際にダンサーの中で即興ダンスをする人たちにダンス歴は問われません。私自身幼稚園の頃から約16年間ダンスをしてきてバトルに参加したことはありませんが、ダンス歴数カ月でバトルに挑戦する者もいます。誰でもできることであるはずなのに、技術とセンスが全面に試されるバトルシーンを恐れて足を踏み入れることのできないダンサーは少なからず存在します。これがインプロヴィゼーションの複雑でありながら単純である部分だと感じました。
最後に
『インプロヴィゼーション──即興演奏の彼方へ』を通してインプロヴィゼーションとは何かについて学ました。今回は音楽演奏者のインプロヴィゼーションについて書かれていましたが、ダンスにおけるインプロヴィゼーションに大きなヒントを与えてくれる一冊でした。インプロヴィゼーションはけっしてとどまることなく、常に変化し姿を変えていくもので理論的、学術的に分析するものは難しいものです。しかし、芸術家それぞれが持つインプロヴィゼーション観に触れることで、インプロヴィゼーションがパフォーマンスにおいてどのような存在なのか少しずつ見えてくるように感じました。今後もダンサーを含む様々なインプロヴィゼーション観を知り、即興の奥深さを学んでいけたらと思います。
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