伝統と革新を繋ぐ若き杜氏の挑戦
- ゼミ 横山
- 2024年10月22日
- 読了時間: 29分
更新日:2024年10月29日
相良沙奈恵氏インタビュー
大田夏希、大畑凜、千徳小夏、松本帆奈
相良沙奈恵さん プロフィール
株式会社相良酒造(1831年創業)の杜氏。東京農業大学において日本酒造りに乳酸菌を活用する研究に取り組んだのち、25歳という若さで杜氏として酒蔵を任され、酒造りに励んでいる。相良酒造は栃木県の南部、岩舟町に蔵を構え、仕込み水である日光連山からの伏流水は甘みさえ感じるほどに軟らかな口当たりが特徴である。やわらかな透明感を大切に、飲み飽きせず杯が進むような、食事とともに楽しめる味わいのお酒を目指している。
(筆者撮影)
酒造りのスタート、機械化と手作業
──東京農業大学にて酒造りについて学んだそうですが、実際に杜氏として酒造りをする上で困難やギャップなどはありましたか。
大学4年生のときに、2週間行われる酒蔵実習で初めて酒造りを目の当たりにして、実際のお酒造りの大変さがわかりました。大学のときは座学でお米に触れたこともなく、実家の蔵でもビン詰めを手伝うくらいだったので、今思えば、お酒造りの現場のお手伝いもしておけば良かったなとも思います。大学4年生の実習を経て、大学で学んだことと実際のお酒造りに関して、点と点が繋がるような感覚がありました。
その前は、自分にもお酒が造れるのかなという不安を感じながら日々を送っていましたが、実習と修行で初めて、お酒造りってこういうものなのだと分かりました。修行中は雇われている側でも、蔵に戻ると経営などやるべきことの責任の種類が全然違うので、プレッシャーもすごく感じましたし、今でも常にそれは感じています。
高校3年生の時は、自分がこの道に進まなかったら、代々継がれてきたものがなくなってしまうのではないかと寂しさを感じていました。それでこの世界に飛び込み、本格的にお酒造りを始めたのは、修行を終えて、この蔵に戻って来てからなのですが、想像を絶するほど大変なお仕事で、5年ほど経って、ようやく楽しさも見つけ出せるようになったので続けられているのだと思います。
──修行先で酒造りについて学んだ上で、相良酒造との技術的な違いはありますか。
技術的にも酒蔵によって、設備とか全然違います。私の酒蔵は、当時昭和時代で止まっているような設備だったのですが、私が実習でお世話になったところは、設備も整っており、世界的に輸出をやられているような酒蔵さんでした。酒蔵の規模だけでなくそういった面でも違いました。
──規模の違いも酒造りの技術面に影響するのでしょうか。
そうですね。設備がない方が逆に技術力って上がる部分もあるし、逆に機械化すれば、その分効率が上がって、誰がやっても同じというように、再現性のある結果を出す事が出来るので、どちらにもメリットとデメリットはあります。全ての工程を機械化しているお蔵さんもあれば、機械化しつつ手作りの部分も残すお蔵さんもあるという感じで、そういった差が出てくると思っています。
──相良さんの酒造ではどの部分で機械化と手作業を使い分けているのですか。
帰って来た時は、昭和の時代で止まっていて、正直お米洗いもお水を流しているぐらいの感じでした。お米は糠が綺麗に取れていないと雑味が出てしまうので、まずはお米洗いの部分を機械化しました。洗米機が水の泡の力で洗ってくれるので、お米が砕けにくく、誰がやっても同じに仕上がるようになっています。
それから、当時は本当にボロボロの状態だった麹室を変えました。酒作りの教科書にも、「一麹、二酛、三造り」という言葉があって、麹が一番大事、酵母を増やす工程が二番目に大事、醪管理が三番目に大事ですよと言われています。でも私は、最初にお米とお水が出会うところが一番大事だと思っています。
あとは搾り機も変えました。せっかく良いものが出来上がっても、搾り機の管理がきちんと出来ていないと、糖分を含んでいるので、カビが発生してしまったりもします。その搾った後のお酒も手作業でやっているので、満遍なく機械化してるわけではなく、手作りの部分の方が多いと思います。
酒蔵で使う機械は、一般的な需要がないですし、1回買うと長年持つ分、1個1個が何百万、何千万する高価なものなのですが、機械化できれば時間短縮になり、その分違うところ力を注げるとは思います。
──もし機械化が究極に進んだ場合、それでもあえて手作りにしたい工程はありますか。
洗米や製麴ですかね。水を吸わせすぎると、蒸した後に柔らかくなって、溶けやすくなってしまい、それによって酒質がかなり変わってしまいます。麹造りも時間と共に状貌や香りが変わって来るので、どちらもきちんと自分の目で見て、神経を研ぎ澄ませている瞬間でもあります。
仕込み水も、うちは日光連山の伏流水で軟水なんですけど、蔵によって水系、水脈が違っていて、お水が日本酒の80パーセントを占めてるので、そこで個性が自然と出ています。手作りだからこそ、愛着とか愛情が湧く部分でもありますし、技術的な伝統も途絶えてしまうので、全部機械化しようとは思っていないですね。
──コンビニに並ぶ、機械化が進んだお酒と比べて、負けない部分はありますか。
朝日榮という銘柄は、朝靄の中を登る朝日の中に、喜びや繁栄を願って命名されました。そこから情景を連想させて、青葉に寄り添う朝露をイメージしているもので、透明感やキレの良さを大事にしています。仕込み水も軟水なので、透明かつ、柔らかさがある酒質を目指しているので、そこがパック酒等の淡麗辛口な酒質と違って、個性が出ている部分かなと思っています。
(筆者撮影)
──それはお父様から引き継がれたものなのでしょうか、それとも相良さん自身が工夫した点なのですか。
朝日榮は長く続いてきた銘柄ですが、父から引き継いだ時に、「180年続いてきたものを、ここからさらに180年続けられるように好きにやっていいよ」と言われたので、自由にやらせてもらいました。私がうちの酒蔵に戻って来て任された時は、タンクごとに酒質がバラバラで、細く繊細なお酒もあれば、図太く味の濃いお酒もあって、応援してくださる酒販店様や飲食店様に、どういうお酒を目指しているのかがわからないから、コンセプトを決めた方が良いとアドバイスをいただきました。それから「青葉にそっと寄り添う朝露」というコンセプトを掲げるようになりました。それが目指す方向の指標になって、飲んでくださるお客様にも、年々確かにコンセプト通りのお酒だねと言ってもらえる機会が増えました。
修業時代と蔵の継承
──大学時代に日本酒作りに乳酸菌を活用するという研究を行ったそうですが、現在、その研究は酒造りのなかでどのように生かされていますか。
大学時代に、共同研究で御世話になっていた日本醸造協会というところが、論文雑誌のような会報誌を毎月出されているのですが、そこに研究したことが掲載されていて、それを見た酒蔵さんが、それを元にお酒を造っていました。日本酒をワインの発酵法でやったらどうなるかという研究や、乳酸菌の中にあるリンゴ酸という少し爽やかな香りが出る酵母を使って、ワインの醸造法で発酵させるお酒を実際に造られたお蔵さんもありました。私が研究していた時に、将来蔵に帰ったらやってみようと思っていたのですが、すでに他のお蔵さんがやっていたので、直接的に活かしたというよりは他の蔵に活かされたって感じですね。
──『SAKETIMES』の記事で、「2年間修行した際に、質の高いお酒を造るための微妙な温度管理と徹底的な衛生方法を学びました。また、麹造りのコツを叩き込まれたのが財産になっています」と述べておられます。酒造りにおいて重要なこれらの技術はどのように習得されたのでしょうか。
職人さんって、見て覚えなさいという感じの方が多いんです。基本的なことは先輩が教えてくれるんですけど、重要なところは、聞かないと教えてもらえないので、教科書を見ながら、こんな理由でこれをやっているんだなというように、実際の工程と照らし合わせていました。とりあえずメモを取ることに徹して、画像や映像を撮っておいて蔵に戻ってからの参考にしました。でも蔵に戻ると教科書通りに上手く出来るわけじゃなくて、毎年お米の出来の違いや気候の違いに悩まされました。
──その2年間の修行の間は、何かをやらせてもらったり、体験させてもらうというよりは、ひたすら見て学ぶというような感じだったんですか。
基本的には見て学んでいました。任されたところでいうと、酒母という酵母を増やす工程をやらせてもらいました。その他はタンク洗浄や加温操作をしました。温度を上げていくために、ヒーターのようなものを入れながら毎日温度を上げていき、成分分析も任せてもらったりはしたのですが、酒質に関わる為、先輩と一緒にという感じでした。
──現在の相良さんご自身のやり方が定着したのは、蔵に戻ってきてからどのくらいかかりましたか。
5年くらいですかね。ずっと無我夢中で目の前の事だけで精一杯だったのが、5年くらい経って、だんだん視野が広くなり、全体が見えるようになってきました。それまでは肉体労働だし、寝不足な日々が続くし、冷たいお水に触れるので赤切れも絶えず、辛いの一言でしたね。それでも仕込みが終わった後の春先には、試飲会イベントが各県でやられていて、お客様からのお酒の評価や生の声が聞けるんですよね。「去年より良くなったね」とか。そういうお声をもらえるので、それがすごく励みになって達成感になっていました。
──2年間修行されて戻ってきて、1年で責任者になったという記事を読んだのですが、その時点ではまだわからないこともありつつ、杜氏になられたという感覚ですか。
そうでしたね。私が20歳ぐらいのときに父が一度大病をして、その時は奇跡的に東京の病院で手術してもらえて助かったんですけど、重たい荷物を持つのはドクターストップかかってしまっていたので、いち早く交代したいっていうことで、私が蔵に戻ってから2年目で交代しました。
私が戻ってきた時は、自分よりも目上の正社員の男性ばかりで悩みました。協力的にやってくれるのは一歳下の子たった1人だけでした。若い女性が入ってきて、いきなり何だよって感じだったんでしょうね。それで人間関係で悩んで、自分の蔵だけどすごい気を使いながらやっていました。でも、低価格帯の普通酒と言われるお酒よりも、高価格帯の純米吟醸、特別純米とかの高価格帯のものがこれから伸びていく時だったので、私はそっちに力を入れていきたいと思っていました。
そこで造り方もガラッと変えていくってなった時に、ついて来られない人はどんどん辞めていきました。他のお蔵さんを見ていても、正社員ではなく、パートさんでも能力の高い方は高いので、通年通して雇うのは大変だし、時間を区切ってやっていた方が体力的にも負担が少ないので、パートさんにシフト制で入ってもらうようになりました。今はパートさんとシルバーさんで回してるような形になっています。地元のパートさんも年上の方々ですが、本当に低姿勢で、素直さがやっぱり大切ですね。今では、信頼関係が築けているので、本当にお酒造りに集中できるようになりました。
──専門的な知識のない方に指導する中で意識していることはありますか。
和醸良酒という言葉があって、和をもって良いお酒ができると言われているので、コミュニケーションはすごく大事にしています。ふとしたときにも声掛けをしたり、冗談交じりのことを言ったりとかして、作業中はぴりついてしまっても、ふっと抜ける瞬間を作るところは意識しています。作業中は時間と温度に追われてバタバタバタしているので、その時、教えられることは教えるけれど、時間をかけて教えた方が良いときは、作業が落ち着いた時に話すように心掛けています。
──今一番仕事の中で自分がやりがいを感じたり楽しいと思うのはどういったときですか。
私が蔵に戻った時は、麹造りが一番苦手でした。修行中に教わったことを見よう見まねでやってみても、温度経過など思い通りには行かなかったです。麹の持つ力のことを、力価と言うんですが、その数値がある程度高く出ないと、しっかり酵母が繁殖してくれず、発酵がうまく進まなくなってしまいます。蔵に戻って最初の頃は、途中で酵母がへばってしまって発酵が上手く行かず、狙っていないのに低アルコール酒になってしまいました。これではだめだとまた勉強して、やってみて、反省して、改善しての繰り返しで学びながらという感じです。経験と知識を蓄積させないと上手く出来ないなと思います。
──日本酒造りの歴史のなかで、女性禁制の時代もあったと拝見しました。女性杜氏として、女性だからこそ苦労したことや、逆にならではのことがあればお聞きしたいです。
力仕事がメインで、男性社会だと弱い立場に見られがちです。蔵に戻った時は、取材のお声がけもありましたが、当時はまだ技術力がなく、自信がなかったこともあり、品質が認められての取材だったら嬉しいけど、女性だからと取材を受けて注目を浴びたとしても、打ち上げ花火のように、一過性に過ぎないなと。とにかく技術力を上げなきゃ、酒質を上げなきゃという想いで今に至ります。
酒母という酵母を増やす工程は、蔵によって種類ややり方が違いますが、うちは修行先のやり方で、仕込んですぐに手で混ぜます。手だと温度のムラがわかりやすいので、温度を均一にするために手で混ぜます。その時が一番お米と近距離で直接触れ合うので、やっぱり自分が混ぜたタンクにはより愛着が湧いて、母性本能が働いて、可愛く感じるというか。そういうところは女性ならではのものかなと思います。父にも教わったことなのですが、酒造りは子育てと同じだと言われていて。でも赤ちゃんのようには泣かないので、音とか見た目とか、温度経過、分析値とかを見ながら、体調管理をしてあげなければいけなくて。日中は暖かくても、冬場は夜中冷え込むこともあるので、マットを巻いてあげたりとか、逆に温度が上がり気味だったら外してあげてとか、それでもダメな時は上に何かかけてあげるとか、そういうところを敏感に感じ取れるのは、女性ならではなのかなと思います。温度経過が思い通りにいかない時は、タンクに手を当てて頑張ってって声をかけたりしています。
五感と技術が織りなす酒造りの秘訣
──先ほども0.1度の差で味に影響が出てしまうとお話があったと思うのですが、やはり1番難しいと感じるのはそういったところですか。
そうですね。毎年同じ作業をするけど、より良いものを造らなきゃいけない。ダメなものを出してしまうと、そこで飲食店さんや酒販店さんからも注文をいただけなくなるような世界なので。気候やお米の出来などの情報を得て、それに対応してお水の量や仕込み配合を変えたりしています。仕込み水が軟水で、甘みさえも感じるほど柔らかいので、それを最大限に活かして表現できるように日々奮闘しています。
──甘い水を使っていてもスッキリキレのあるお酒にするために、技術的な難しさもあるんでしょうか。
うちにも辛口のお酒があって、分析値で言うと±0が中間だとして、マイナスの数値は甘口、プラスは辛口と表現するんですけど、+10で仕上げても柔らかさが残ります。しかしそこは個性だと思うので、無理やりキレキレで造ろうっていう感じではなく、優しく包み込むようなイメージで造っています。
──先ほど、音や見た目などでお酒の状態を判断するとおっしゃっていましたが、味だけではなく、色、香り、音、温度など五感をフルに使ってお酒の状態を見極めるという技術を習得できたと実感したのはどのようなタイミングでしたか。
見た目の部分でいうと、泡の出方って毎日違うんですよ。最初の仕込んだ後って溶けていないので、米米しいんです。それが溶けてくると液状化していくので、音も煮物みたいにブクブクしているのが、だんだんピチピチしてきたり。アルコールが出てくると、シュワシュワとかサーとかっていう音になるんです。
そういう知識は修行先で学んだんですけど、使っている原料や機械が違ったり、目指す酒質も違うので、醪の状貌というのは蔵によって異なります。なので、蔵に戻ってきて、もくもくしていたら雲、音がグツグツしていたら煮物みたいなに毎日メモをして、これなんだろうとか、変な香りが出て来てしまったとしたら、県の産業技術センターの先生に聞いて答え合わせをしています。お酒造り中も、蔵にお見えになってご指導いただけるので、実際見てもらって疑問点を解決していきながらどんどん知識と技術を身に付けていくという感じですね。
──杜氏として酒蔵を任されてからは、見ただけ、聞いただけで、今どのような状態なのかを見極められるようになったということですか。
そうですね。これぐらいになったから、もう搾りが近いかなというのは分かるようにはなってきました。
──修行先で酒造りについて学び、現在こちらの蔵に戻ってきて、ここならではのこだわりのお酒を作り上げていくまでにどのような過程や工夫をされてきましたか。
例えば麹造りの過程では、麹菌っていうカビがあるんですけど、種類によって出てくる酵素力価が変わってくるんですよね。同じ経過を辿っても、沢山糖分を出してくれるものとそうでないものがあって、甘いお酒になるのか、ならないのかというのも変わるので、麹菌の種類を変えたり。菌の量によっても菌の廻りが変わってくるので、菌をいっぱい振れば味の濃いお酒ができやすいんです。菌量が少ないと綺麗な感じのお酒になります。
あとは、温度経過も蔵に合うものや目指す酒質などを考慮して変えたり。それから、今地球温暖化が進んでいるので、仕込みをする時も、普通にやるだけだと目標温度にならないんですよね。外気が高いとお米も冷えてくれないので、水の代わりに氷を入れたりするんですけど、造った麹を冷凍庫に入れて氷代わりにして、原料として入れることで温度を下げるという工夫をしています。醪の発酵も、先代は最高温度を高めに設定していたんですけど、私は低温発酵といってゆっくり発酵させていくタイプの造り方をしていて、発酵経過も変えています。
あと、発酵経過が良くても搾ってから瓶詰めまでの時間が結構重要で、いかに早くするかによってフレッシュさが変わってくるんです。時間をかければかけるほど、どんどん熟成が進むので、うちは搾ってから3日以内に加熱処理をして冷蔵庫に入れるということを徹底しています。搾ってから冷蔵庫に入れるまでの期間が肝です。昔はタンク貯蔵が主流だったんですけど、今はフレッシュなお酒が流行っているので、加熱処理をするまでの日数が短くなってきています。今は冷蔵庫が必要な時代になっているので、敷地がないお蔵さんは冷蔵庫を借りて、そこまで運んで貯蔵していたりしますね。
──時代に合わせてお酒の造り方も変化していると思うのですが、10年後、20年後はこういうお酒の造り方が流行るのではないかと考えていることはありますか。
実際、数年前からスパークリング日本酒って流行っていて。日本酒って15、16度、高いところだと17度くらいあるんですけど、ここ最近だと12度くらいの低アルコール酒でも全く薄っぺらくなくて、ちゃんとそれなりに味があるように仕上げられているお蔵さんが増えてきているので、低アルコール酒はまだまだ伸びしろがあるなとは思いますね。
あとは今、日本酒ってかなり輸出量が伸びていて、海外の富裕層の方とかに多く飲まれているみたいです。アジアとかアメリカとかでも高い金額で売れているらしくて。日本酒ってお米を磨けば磨くほど高級酒になるんですけど、パッケージも全てこだわって、1本720mlを数十万円とかで売っているお蔵さんもあったりもしますね。
──先ほどおっしゃっていた、もろみの低温発酵とお父様がやられていた高温発酵の違いはなんですか。
発酵の最高温度が高いと溶けやすくなるので、温度が高い分味が出やすい。発酵が旺盛になるので結構しっかりした味になるし、発酵にかかる日数は短くなります。私は低温で発酵をしているので、日数的には少し長くなるけど、ゆっくりゆっくり持っていくので雑味が出にくく、綺麗な感じの酒質に仕上がります。酵母にとってもストレスがかからないんじゃないかなっていうのもあって。ストレスをかけると苦みや渋みが出てきちゃうんです。
──それは、相良さんがお酒を造る過程で高温発酵よりも低温発酵の方がいいなと思い、変更したのですか。
そうですね。あとはお世話になってる蔵元さんに聞いたりとか。自分の蔵に合う酒質と色々照らし合わせてそこにたどり着いて。蔵に戻ってきて低温発酵に切り替えた時は、県の先生から「もっと高めに取った方がいいよ」とか散々言われてたんですけど、ある時、酒販店様とかが評価してくれるようになったら、「いや、相良さんは今のままで。」って。今のやり方で認めてもらえるようになりました。
──酒造方法を変えたことに対して、お父様と話し合ったり、ぶつかったりしたことはありましたか。
蔵に戻って来た時に、「自由にやっていいよ」って言ってもらっていました。酒質に直結する機械は補助金を使って進んで導入してくれたりして。こうしなさい、ああしなさいとか、そういうのは特にありませんでしたね。
──時代の変化に合わせて酒造方法も変化しているという印象を受けたのですが、その中でも、この蔵でお酒を造り続けるということや仕込水である日光連山からの伏流水などによって伝統を受け継いでいるのでしょうか。
そうですね。お水の水質はどうしても変えられないものなので、やっぱり大事にしなきゃいけないとは思います。けど、父が造っていたものも優しい感じの味わいではあったので、目指すものは似たような感じだとは思うんですけど。蔵に戻ってきてから、父とは1年しか一緒にやっていないので、どちらかというと、修行先が同じ越後杜氏だったので、そこでのやり方をそのまま持ち帰ってきて、ちょこちょこ変えているという感じです。ただ、修行先は華やかな香りが出る酵母を使っていたので、少し違いはあるかなとは思うんですけど。酒蔵って、昔はものすごい数があったんですけど、今はもう1500軒もないですね。だいぶ減ってきちゃっているので。世界的に見ても、日本酒造りとか日本酒って価値あるものだと思うし、輸出とかで売れているのも認められているということだと思うので、日本の大切な伝統文化であるお酒造りを、途絶えさせちゃいけないなという思いはありますね。
相良さんの願う日本酒の未来
──杜氏として酒造りをしている中で、次の世代に伝統を受け継いでいくために取り組んでいることはありますか。
酒造りの歴史は変化してきています。以前は夏場は米作りをして、冬場は出稼ぎで酒蔵に来る新潟からの杜氏の方がいた時代でしたが、高齢により来てもらえなくなってしまったりします。酒蔵を継続するため、2–30年前から、蔵元の娘、息子がお酒造りをするパターンが増えてきて、経営だけではなくお酒造りも自分たちでという傾向があります。
うちの場合、家族経営なので、今は私がいないとお酒造りがストップしてしまうというような状況です。私が外出中、蔵人との電話やメールのやり取りで状況を把握して、指示ができるくらいにはなっているんですけど。お酒造りはスタートしたら、生き物相手なので、途中でストップする事は出来ず、私の場合は10月から3月まで、お正月くらいしかお休みがありません。私が完全に1日お休みをもらえるようになることが理想ですね。蔵人には週1回くらいはお休みをあげていますが、もっと働きやすくしたいですね。私もだんだん年老いていくものだし、体力も限界が来ると思うので。定年60歳って言うけど、60歳まで女性杜氏ってやれるのかなって。
正直腰とかも痛くなるし、どんどん引き継いでいくのは大事なことかなと思います。最初の頃は、愛着もあるものだし、信用できない人にお米を触らせるのが嫌で、雑に扱われるくらいだったら触らないでって思っていたんですけど、それだと育たないので、逆にどんどんやってもらうっていう感じですね。
──修行先では酒造方法を言葉で教えてもらうのではなく、見て学んでいたとおっしゃっていましたが、現在教える立場になって修行先でご自身が教わったような教え方をされているのか、もしくは違った教え方なのか、どのような指導法をされていますか。
私の場合は目的があって修行に行ったからそれで成り立っていたのかなとは思うんですけど、普通に入社してそれをやられたら嫌になっちゃうよなって思うんです。だから、「あなたがいないとダメだよ」とか、そういうことも伝えるべきだと思うんです。大変なところだけじゃなくて、こういう面白さもあるよとか、そういうところもちゃんと教えていくことが大事なのかなと思います。
この仕事は忍耐力が本当に必要なので。じゃないとどこかで挫けちゃうと思うんです。なので、口で教えて興味を持たせるということを意識しています。一緒に働いてくれている男性蔵人さ、お酒が好きなタイプなので、同じベクトルでできるんですが、女性のパートさんは普段からお酒をあまり飲まない方が多いので、最初はお酒に興味があって来てくれていたわけじゃないはずなんですよね。でも今は、「お酒のコンテストに出品します。」「予選通過しました。」とか、「目標にしていたイベントに呼んでいただけました。」と報告すると、涙を流しながら喜んでくれるぐらい同じ気持ちになってもらえたので、そういう風に育てるというのは大事だなって感じますね。
──お酒のコンテストについて詳しく教えていただけますか。
今は日本酒の輸出がすごいので、フランスやロンドンなど各国で開催されています。出品料が数万円の世界なので、出品されているお蔵さんはそれなりに大きな蔵になってきます。うちは市販酒のコンテスト1つだけにしか出品していないです。あとは、この間『dancyu』っていう雑誌に掲載していただいたんですけど、それも蔵に戻ってきた時の1つの目標で。酒販店様や飲食店様も読まれていて、この業界だとすごく注目度が高いので、掲載されると影響力はあると思います。
それから、元サッカー選手の中田英寿さんが日本酒の会社をやられていて、イベントを企画されたりもしているんですけど、この間六本木ヒルズで開催されたクラフトサケウィークというイベントに呼んでいただきました。期間が12日間、毎日テーマが違って、1日あたり10の蔵が出店されて日本酒を楽しむイベントで、それも1つの目標にしていました。コロナ前に一度お声がけいただいたんですけど、コロナ禍で中止になっちゃって。
中田さんからは、「透明感とか女性らしさが出ているお酒だ」という風に言っていただけて、きちんと自分が表現したいものを感じとっていただけているんだなと思いました。
──相良さんが愛情を持って作り上げたお酒は、やはり他のお酒とは味わいが変わってくるんですかね。
そうですね。規模によって違うんですが、タンク1本あたり750kg仕込みなんですけど、初年度に造らせてもらった時は220kgの本当に小さいタンクで。普通は1500Lぐらいできるんですが、その時は500Lもできないぐらい小さい仕込みだったんです。 当時は心配で心配で、1時間のうちに何回も蔵へ様子を見に行っていました。だから出荷される時はちょっと寂しくて、嫁に嫁がせる思いでした。その時は本当に必死で、お酒造りは命削る思いでするということを身をもって学びました。それを見た父が、初年度からそう思えたんだったら任せられるなということで、次の年から責任者としての役割を担いました。
──イベントやコンテスト以外で、日本酒の魅力を広めるために何か取り組んでいることがあれば教えてください。
コロナ禍になってお客様と接する機会、イベントがピタッとなくなっちゃったので、そうなった時にアピールする場所としてのSNSにはすごく助けられたなって思っています。だから今もfacebookとかinstagram、twitterはやっています。実際SNSをやっていると、ここの飲食店さんは取り扱ってくれているんだっていうのが分かりますし。SNSを地道にやっていくっていうのはありますかね。
──ご自身がお酒の情報を発信するだけではなく、SNSを通じて飲食店さんからの情報を知ることができているということですか。
そうですね。こういう評価をもらっているんだとか、タグ付けされているお酒の評価見たりとか。蔵に戻ってすぐの時は苦みがあるとか結構マイナスなことを書かれたりもしたんですが、最近そういうマイナスなことが書かれなくなったのでよかったと思っています。
──伝統、伝承に対する思いをお聞かせください。
うちの酒蔵は江戸末期の1831年からあって、現在9代目になりますが、そんな時代から続いてるものって他の業種であるのかなって考えた時に、あんまりないんじゃないかなと思います。本当に貴重なものになりつつあるし、機械化されてきている時代なので、そういった意味でも日本酒造りは手造り感がありますよね。ビールみたいに毎回同じ味になるものでもないし、蔵によって味も違うし、ラベルも違うというところで、日本人として大事にしなきゃいけない産業だなと思うので、絶やしてはいけないなっていうのはすごく感じていて。コロナ禍で廃業してしまった酒蔵が沢山あるので、日本酒業界にとって厳しい時代ですが、日本の大切な伝統文化を未来に繋げていきたいと思っています。
あとは燃料として重油も使うので、アルコールを扱っている身としては火災が怖いんですよね。火災は一瞬にしてなくなってしまうので気をつけたいですね。
蔵自体も、昔からの建物なので釘とか一切使わずに作られていて、昔につくられた瓦の屋根はすごく重いので、今になって重さでガタが来ていて、雨漏りがひどくなったりしているんです。修繕工事はやはり高額なお金がかかるので、部分的に直していっているという感じですね。
でも、今出入りしてくれてる大工さんは重要文化財などやられている方なんですが、「こういう建物は今はもうないから、大事にした方がいいよ」って仰います。建物1つにしても、古くからある貴重なものとして本当に大事にしていかなきゃいけないなっていうのはありますよね。
やはり伝統は続けていかないと途絶えてしまうし、引き継いでどんどん伝えていかなきゃいけないものだなとは思いますね。昔じゃ考えられなかった低アルコールの日本酒なども出始めてるので、昔に比べたらバラエティに富んだ業界にはなってるかなとは思います。是非若い方にも飲んでいただきたいです。
──日本酒業界の未来に願ってることはありますか。
栃木県には、乾杯の際に、栃木の地酒で乾杯をする乾杯条例というものがあります。お米が出来上がる時期の10月1日は日本酒の日とされていて、その日は夜7時になるとみんなで1杯目から日本酒で乾杯して色んなイベントが開催されています。
あとはお葬式でお酒を引くのが当たり前だった時代から、コロナ禍以降は、葬儀もだんだん簡略化されてしまっていて、日本酒で清めるっていう文化がなくなって来てしまっています。そういった日本酒の文化を残して、大事にしていってほしいと願っています。
──日本ならではの文化ですよね。こちらのお酒は、お清めのお酒として儀式とかに使われることも多いですか。
はい、私の酒造では町内、市内の葬儀場に納めさせていただいています。でも、昔は瓶だったんですけど、今ってペットボトルなんですよ。それが箱に入れられて納品されていて時代を感じますね(笑)。
あとはおじいちゃんたち、おばあちゃんたちが飲むお酒っていうイメージを覆したいって思っています。お酒のイベントに若い方が増えてきてはいるので、一昔前よりは若い世代にも飲まれてきているとは思いますが。
逆にみなさんはどういう日本酒があったら飲みたいと思っているのか気になります。飲もうと思える日本酒みたいなものはありますか。
──日本酒と食を合わせた飲み方を全然知らなかったので、知る機会があったら日本酒により興味を持てると思います。
たしかに。実際にうちでどんなお酒を造ろうかってなったときに、居酒屋さんに行って様々な食事に合わせました。うちはお出汁系の料理、例えば湯豆腐、揚げ出し豆腐、だし巻き卵、煮びたしとか、繊細な味わいのものでも引き立てられるようなお酒を造りたいなと思って、酒質が固まりました。
お酒造りで使用するお米は、酒米と飯米があって、どっちの種類のお米で造ったお酒もありますが、うちは特別純米は飯米で造っています。酒米で作るよりも、芯がしっかりしたタイプのお酒になるので、味の濃いお料理でも合うというコンセプトがあります。純米吟醸だったら塩味の焼き鳥とか、カルパッチョとか淡泊なものでも合うだったり。1つの蔵でもお酒の種類によってお米も違ったり、酒質も違うんで、そういう面白さはあると思います。
あとはビールとかはキンキンに冷やして飲むと思うんですけど、日本酒はお燗して飲んだり、逆に冷やして飲むとか、1つのお酒でも温度によって全然味わいが変わります。
──お父様から酒造りを受け継ぐことになった時は、相良さん自身の気持ちに揺らぎはなかったんでしょうか。
当時高3で、継ぐ予定だった兄が事故に遭い、父親から一生車椅子だという話をされました。父は婿養子で来ていたので、蔵が自分の実家ではなかったという立場だったんですけど、「人に言われたからってやると、人間弱いから、絶対になんかあった時逃げ出したくなっちゃうから、自分の意思でちゃんと考えて決めなさい」って言われて。でもやっぱりこう話してくるってことは、無言の圧力みたいなものをすごい感じていて。たくさん考えて、父とも夜な夜な話し合いました。でも何よりも、自分がこの業界に入って蔵の仕事をすることで、代々継がれてきたものを存続できるならっていう思いの方が強かったので、若さの勢いと情熱で飛び込みました。今振り返ると、若さってすごいなと思います。
でも逆に、この仕事をして良かったと思うことは、親の大変さが分かったということが大きくあります。お酒造り中は自分の時間を持つことも本当に難しいのに、よく子供との時間を作ってくれてたな、とそんな風に感謝の気持ちを持てたことが1番良かったかなと思います。
──最後に、大学生や若者に向けてメッセージがあればお聞きしたいです。
皆さんがどういう職に就きたいかはわかりませんが、私は男性社会に入って、苦労はしたけど、大変でもコツコツ努力を積み重ねてやっていれば、見てる人は見てくれてるっていうのはすごく感じています。そういう方との出会いから、応援してくださる方が増えて、どんどんご縁が繋がっていく。ご縁が繋がってくっていうのも日本酒の良いところかなと強く思います。
皆さんにもご縁を大事にしてほしいなっていうのはすごく感じますね。
編集後記
取材を通して相良さんの酒造りへの強い想いや努力を知り、そのまっすぐな人柄と姿勢に同じ女性として尊敬する部分が多くあり、これから社会に出ていく大人として鼓舞された気持ちでした。取材のあとにいただいた「朝日榮」は、相良さんの心のこもった、柔らかな味わいに感動しました。若い世代は日本酒離れが進んでいますが、こういった日本酒の本当の良さが広がっていくことを期待しています。貴重なお話をありがとうございました。(大田)
日本酒の製造方法は創業当初から先代によってそのまま受け継がれているというイメージがあったのですが、相良さんは目指す酒質や時代に合わせて酒造方法を変えていると知り新たな発見がありました。また取材を通して、相良さんの日本酒に対する愛や日本の伝統文化を守りたいという思いが伝わりました。私は相良さんに取材をさせていただくまで日本酒を飲んだことがなく馴染みがなかったのですが、「朝日榮」を飲んでやさしく透明感のある味わいに驚きました。これを機に、お料理とともに日本酒を楽しんでみたいと思いました。今回は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。(大畑)
相良さんの素敵な人柄から楽しく取材を進めることができました。特にお酒造りをする上で自分の気持ちがお酒の性質に現れるという部分は、繊細なものを造り上げていく中で重要な心持ちだと私自身も感じているのでとても共感しました。想像を絶するほど過酷なお酒造りをそれでも続けて楽しいと思えている相良さんだからこそ作れる、優しくて深みのあるお酒が「朝日榮」だと思っています。今後の相良さんのご活躍を祈っております。今回は素晴らしい時間をありがとうございました。(千徳)
日本酒業界に入られてから様々な困難を乗り越えられた相良さんの強くてまっすぐな人柄が印象的で、一人の女性として尊敬する部分が多くありました。今回の取材で日本酒の魅力に触れる機会をいただけたことがとても嬉しく、より多くの人に日本酒の良さが知られたらいいなと思います。また、取材のあとには町にあるお店の方とのつながりや地域の方々の温かさに触れ、まさに「ご縁」を感じました。素敵な町を訪れることができ、学ぶこともありました。今回は貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございました。(松本)
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