古くて新しい狂言
- ゼミ 横山

- 5月7日
- 読了時間: 30分
更新日:6月18日
狂言方能楽師・小笠原由祠氏インタビュー
矢鋪怜那
2024年8月26日に国立能楽堂で上演された『第一回おがさわら乃會』を中心に、小笠原さんの猿楽研究や狂言師としての活動にかける思いを伺いました。
小笠原由祠さんプロフィール

1965年8月27日生まれ。1983年、八世野村万蔵に入門。1986年5月「舟ふな」シテで初舞台。1989年、国立能楽堂 第二期能楽研修に入所。1996年 、「三番叟」 を披き独立し、翌年『萬狂言』関西支部代表に就任。「若菜の会」「延年之會」などを主宰する。国内の狂言普及活動、新作狂言の演出、NHK大河ドラマ等内での芸能指導、海外公演、仮面製作など活動は多岐にわたる。ホームページはこちら

狂言の原風景をさぐる
——小笠原さんにとっての猿楽研究や再現の意義についてお聞かせください。
まず、僕は能の家柄ではない、いわゆる門閥外で、高校卒業後12年間内弟子として修行に打ち込み、独立した口なんですよ。子供の頃から能楽に近い方々と違ってある程度物心ついてから始めたので、「なんでこういう動きをするのかな」「この動きの元々はなんだったんだろうか」とか、素直にすごく疑問に感じてたんですね。
代々続くお家に生まれると、初めからの環境がそうなので疑問に思わない。いちいち深掘りしなくても当たり前にやっている方がほとんどです。僕はそうではなかったので疑問に感じたわけです。
でもそんなことを先生に尋ねても「理屈は言うな」「そんな暇があったら舞台掃除しろ」とか言われちゃうし、やっぱり理屈よりもまずは身体に叩き込んでいく。芸は特に修行中っていうのは理屈じゃないんですよね。だから聞くことができなかったんですけど、自分が一人前になって独立したあとに探求し始めました。
──どういった探求をされたのでしょうか。
たとえば仮面です。私は実は仮面の研究者でもありまして、自分自身でも面を作るんです。この間使っていた面は、呪師(*1)で舞ったもの以外は僕が作った面です。
*1 修正会・修二会などの法会において「走り」等の呪術的作法を担当したのが「呪師」。能の『翁』のルーツとされ、おがさわら乃會で復元が試みられた。
能面・狂言面だけでなくて、アフリカの仮面とか世界の仮面を研究しています。西洋にもコンメディア・デッラルテ(イタリア)(*2)っていう仮面劇があったり、韓国にも中国、バリやジャワにもあるんですね。
*2 16世紀イタリアに起こった仮面即興喜劇。17世紀ヨーロッパで流行し、その後の喜劇に大きな影響を与えた。
じゃあ「なんで仮面をつけるんだろうな」とか「仮面はなんだろうな」って疑問に思った。それで自分で仮面の研究をしたり、作ったりしています。なんでだろうって深掘りしていくと、宗教・生活習慣・思想哲学に突き当たる。だから私は古神道の修験者でもあって、山伏でもあるんです。
──今回の公演もそうした活動の延長にあるのでしょうか。
はい。そうやって、元の元はなんだろうと常にずっと考え続けていたときに『新猿楽記』という書物を知ったんですね。『新猿楽記』というのは、平安時代中期に藤原明衡が記した書物で、猿楽について書かれた最古の文献です。
冒頭に「今、京都の都では猿楽というものが大流行している」という描写があります。猿楽のレパートリーが列挙されていて、当時の猿楽の名人の役者の名前などが出てきたりする。「庶民は顎が外れて腑がよじれるくらいに抱腹絶倒して楽しんだ」って書いてあるんですよ。
それは今の能と狂言からは全く想像できなくて、大袈裟なのかなとも思いつつ、でもそうじゃないんだろうなとも思った。それで、平安時代の猿楽がどんなだったのかすごく興味を持ちました。そしてそれをいつか復元したいなというのはつねづね思っていました。
今の能狂言を否定しているわけではないですよ。今の能狂言というのは、良い意味でも無駄なものを切り取って非常に洗練されているわけです。非の打ちどころのない非常にパーフェクトな完成度を持っている。
だけど、そこに至るまでのプロセスの中で無駄なものとして切り捨てていったなかにも良いもの…エネルギーやバイタリティに溢れた、プリミティブなものがあるのではないかとすごく思ったんですよ。
イタリア仮面劇との出会い
もう一つのきっかけは、イタリアの伝統仮面劇コンメディア・デッラルテです。
私はヴェネツィアのカ・フォスカリ大学で3年間非常勤で教えたことがあるんですが、私がコンメディア・デッラルテと狂言のコラボ劇の公演をやったのをイタリアの中近世の幕間劇の研究をしている先生が見にきてくださったんですね。面白いというので大阪の桃山学院大学に呼んでいただいて、3年間客員教授として通年で学生に講義しました。
それとは別個に共同研究というかたちで、カ・フォスカリ大学のボナヴェントゥーラ・ルペルティ先生(*3)とチームを組んで日本とイタリアの中世幕間劇・仮面劇の共同研究を3年間やったんです。そのときにイタリアのコンメディア・デッラルテの役者と交流を持つようになり、狂言の原風景はこれだなとすごく思ったんですね。
*3 ボナヴェントゥーラ・ルペルティ(1959-2023)…カ・フォスカリ大学(ヴェネツィア)アジア・地中海アフリカ研究学科日本語日本演劇教授。
──コンメディア・デッラルテと狂言に共通するところがあったのですね。
イタリアのコンメディア・デッラルテは16世紀のルネサンスの時代に生まれました。狂言は今のかたちに整備されたのが14世紀、世阿弥以降のお話なので、僕らの方が100年以上古いです。でも、だいたい同時期に同じような仮面を用いてインプロヴィゼーション、即興で風刺的要素を持った喜劇が生まれるというのは面白いとすごく思ったんですね。
違いは、コンメディア・デッラルテはナポレオンの時代に一度途絶えていて、20世紀に革新的な演劇人に古典回帰で復元されたところです。だから泥臭いといいますか。良い意味で洗練されていないんですよ。
それも一つのきっかけで、狂言の原風景を復元させたいという想いがずっとあった。それをすることによって何をしようとしているかというと、さっきも言ったように、能狂言は非常に洗練されて芸術性が高いパーフェクトなものだと思うんです。
今日もMondoParallelo歌劇団の新作(*4)を能狂言の形式でやりますが、新作ならありうるんですけど、オリジナルのトラディショナルの作品を触るというのは、僕もやったことがあるんですが、うまくいかないんですよ。
*4 インタビューの翌10月27日に開演予定の公演、MondoParallelo歌劇団による『金色夜叉』。ホームページはこちら(現在は終了しています)
──それはどうしてでしょう?
なぜかというとパーフェクトなんです。非の打ち所がないの。650年間も無数の狂言師が手を替え品を替え、いろいろ工夫してきたものでしょう。だから、ぽっと出の私が思いつきでいじったりすると火傷しちゃうわけです。
すごく計算されて、洗練されているのね。そうでない作品もあるけれど、名曲と言われるようなものは、非常に完成度が高いわけですよ。
それはそれで非常に素晴らしいとは思うんですが、それとはまた別の猥雑さ、まだプリミティブなものの魅力だってあるはずなんです。そして、そういう要素のものができれば幅ができると思うんですよね。
今の能狂言だとそれは難しい。芸術性が高すぎちゃうから「敷居が高い」とか「わからない」とか、そうなっちゃうんですよね。そういう作品もありながら、もっと非常にわかりやすくて、文句なく顎が外れて腑がよじれるくらいの作品があれば、振幅度が広がるんじゃないかなと。
特に僕は能狂言に危機感を持っているんですよ。やばいんじゃないかなって思ってるわけですよ。
——それは能や狂言が無くなってしまうかもしれないという危機感でしょうか?
まあ、一定数のファンもいるし、芸術性も高いから滅びるっていうことはないかもしれないけれど、どんどん社会性がなくなっていってる。下手すると伝統儀式的、モニュメンタルなセレモニーになって、一般の人とは全くかけ離れてしまうかもしれない。
それってどうなのかなって僕は思うんですよね。そんな思いもあって始めたわけです。
——文献を用いた学術研究も大事ですが、実際に演じられている方が研究するということには大きな意味があるのではと思います。
そうですね。研究者だけで作ると、学術優先ですから面白みに重きを置いていないということもあるでしょうけれど、ときに面白みに欠けるということが起こり、結局なにか自分の自己満足というか、エンターテインメントにはならないの。この間見ていただいたものも「復元」ではないんです。
昔のまんま今やって面白いかと言ったら、普遍的なものはあるかもしれないけれども、時代も価値観も違うから言葉もわからなかったりしてそんなに面白くないと思うんですよ。そのままではなく、その精神、スピリッツというものを大切に復元・考証・創作したつもりなんですよね。まだまだ未完成ですけどね。
たとえば、今回の演目に<宝数え>(*5)というのがありますが「復元」すると全然面白くないんですよ。つまり今と価値観が違うから、昔の宝物を列挙したって、21世紀の時代からしたらどこが宝物なの?っていうふうになっちゃうわけです。
*5 宝数え…翁が諸国の宝物を数え上げる演目で、中世紀の翁にあったとされるさまざまなレパートリーのひとつ。おがさわら乃會で復元が試みられた。
今の宝物はなんだろうって考えて、普遍性を大切に作ろうと心がけていました。今後もそうしていこうと思います。
学者さんがやる復元・考証ではなく、もちろん全くのでたらめをつくるわけじゃないけれど、昔やっていたことをちゃんとふまえながら作っていく。現代の人にとって面白いのか?通じるのか?といったことも大切な要素じゃないかなと僕は思っています。
——<宝数え>の台詞は見ていてとても面白くて、印象に残っています。
そうですか。こなれていなくてみんな笑っていたかな。
謡と舞と語り、美しさ
——猿楽を現代に再現させる上で「ここは譲れない」という点をお聞かせください。
ここは譲れない点ね。狂言師っていっぱいいますけど、必ずしも共通ではない。もちろん、最小公倍数、最大公約数というかな。狂言師として共通している部分はありますよ。
でも「狂言とはこういうものである」っていうものは、その役者のさまざまな狂言観によるものだと思うんですよ。私の中の狂言観というものがやはりあってですね。そこを逸脱するのは譲れないっていうことですよね。
私にとってのそれは「謡と語りと舞」です。これは僕の師匠から教わってきたことで、狂言の大切な3つ…三種の神器みたいなもの。歌と踊りと、それから語る。これが狂言の三つの大切な要素なんですよ。
ご存じの通り、能のなかでの狂言の役割は間狂言といって、ストーリーテラーとして語ります。語りっていうテクニックが狂言にはあるわけです。那須与一の語り(*6)が登竜門であったりとかする。狂言であってもやはり能舞台でやるから、謡と舞、つまり舞歌の要素が全くないのもダメだと思うんですよね。
*6 那須与一の語り…能「屋島(八島)」で語られる間狂言を抽出して演じるもの。平家物語の一場面を1人で語り分け、狂言の習得過程では大学入試に例えられる。
謡や舞について、そこまで重要ととらない狂言師もいますけれど、僕の師匠からそれじゃダメですよと口を酸っぱくして言われていました。そして私もそうだと思っているので、謡と舞と語りっていうもののクオリティが落ちては狂言ではない。
ひいては、それが大切ってことはある種洗練された美しさだと思うんです。謡や舞だってそうでしょう。つまりそれは結局様式性というようなものでもある。舞なんか特に身体の様式性ですね。結局美しくなければ駄目だ、と。
——美しさは忘れてはいけないんですね。
うん。でもこの価値観っていうのは人によって違うじゃない。どこが美しいのかっていう基準は違いますよね。謡・舞・語りっていうものがちゃんと様式的に、ある一定の基準を逸脱せずに美しくあるっていうのが私の狂言観ですね。
これが全くない狂言というのは、僕はないと思います。どんな狂言にだって語る部分はあるし、舞の部分はあるし、歌う部分もあるしと思うんですね。ここは譲れないところですね。
この間やったものだって、<翁>はもちろん息子とやった<新猿楽記>にも、この語る要素と謡う要素と舞う要素がちゃんと散りばめられていたでしょう。それは私のなかの狂言っていうのがこういうのだっていうことなんです。
もっと幅広くいうならば、能楽って言っても良いかもしれませんね。能楽として譲れないものは、やっぱり舞歌と語りだって僕は思っています。
——それは復元に限らず新作の狂言を作るときにも大事にしていることでしょうか。
そうね。狂言というタイトルをつけた場合、つまり「新作狂言」みたいになったら、もう絶対に外せないと思いますね。
即興という強み
——ちなみに先ほどのイタリア仮面劇とのコラボレーションでも美しさから外れないようにされていたのでしょうか?
あ、それは違うんですよ。イタリアの仮面劇とコラボしたときには、実は僕は自分の勉強のために、実験的にいっさい狂言の技術を使わなかったんです。
というのも、同じ喜劇で仮面を使ってという共通点はあるんだけど、イタリアのコンメディア・デッラルテの役者と一緒に作品作りをするお稽古などのプロセスは全く異なっているんですよ。
まず、コンメディア・デッラルテは即興、つまりインプロヴィゼーションです。狂言は、型・フォルムっていうのかな、様式性で全部決まってるわけですよ。だから僕はイタリアの役者とやると全部作っちゃってたんです。こういうテーマでやろうと決めたら、台本を作っちゃう。セリフも動きも全部です。でもそれって即興じゃないわけですよ。
でも準備して用意するっていうのはもう体に染み付いちゃってるんですね。だから相手が即興でバッてきたときに返せない。「相手はこうやってくるから、こういうふうにリアクションしよう」って全部計算してるから、ぜんぜん想定外のことをやられると返せなくなっちゃう。
──なるほど。
イタリアの役者から「君がやってるのは即興じゃない」ってさんざん言われました。向こうはわざと約束にないことをしてくる。僕は困っちゃって最初の頃は対応できなかった。
即興といっても統計学みたいな感じで全く突拍子もないわけじゃない。だから「こうくるかも」っていうパターンを5通りぐらい想定して、「このパターンが来たらこれで返そう」ってやっていたんですね。
でもこんなことをやっていても駄目だなと思いました。即興に即興で返せるテクニックを身につけようと思いました。せっかくイタリアの人とやっているんだから、能楽のテクニックを封印したの。最初は苦労しましたけど最後の方はできるようになりましたよ。
だから僕は即興もできるんですよ。見てもらったかもしれないけれど、<新猿楽記>は即興の部分もすごく多いんです。お客の反応を見てやる。僕が作ってるから、台本なんかないですからね。
今回のMondoParallelo歌劇団の公演もそうですよ。今スタッフが忙しく準備しているけれど、僕はほとんど即興でやるわけです。でもその即興というものは、結局あるベースがあって、その型を崩すことでもあるんです。型がないと駄目なのね。
──崩す元となるベースが必要ということなんですね。
そうそう。ちょっと難しいですけどね。何が元かっていったら、もうその人の感性ですしね。だから私はイタリアの仮面劇をやったときに即興を勉強したんです。インプロヴィゼーションをイタリアの役者から学んだ。
それができるようになると、まったく突然じゃないんですよ。さっき言った、パターンが来たら5通りぐらいで返せるっていう想定をすることは悪いことではない。そういう引き出しをたくさん持っているってことが即興ができるっていうことなんですよ。
だからそのやり方は、実はあながち間違ってなかった。でもそんなことをいちいち計算しているのが馬鹿馬鹿しいというか、相手がパッと来たらそれにスッと返せることが即興だね。経験値というのもあるかもしれません。
とにかく、イタリアの仮面劇とのコラボレーションをやったときには、まったく謡・舞・語りの技術を使わなかったです。僕がイタリアの方に寄ったというか、それを僕は学ぼうとしていたからです。
狂言のテキストを翻案化したコラボレーションでした。<附子(ぶす)>って狂言があるでしょう。その話を元にして、<うもうて死ぬる>(*7)っていう作品を作ったりしました。
*7 延年之會(Eenen)東京・大阪で上演された新作狂言。ホームページはこちら
内容は、イタリア人のお金持ちの主人とその家来がふたりいる。家臣は狂言だと太郎冠者・次郎冠者だけど、その作品ではアフリカ人移民、労働者ですよ。
主人が「今から俺は出かけるけど、これはウランだから危険だ」という。東日本大震災の後だったから、そういう風刺的要素をいれて「被爆して危ないから近づいたら駄目だぞ」と言って出かける。家来が怖いもの見たさでのぞいてみると、中身はティラミスなの。それで全部食べちゃうっていう話にした。
狂言のテキストを翻案化したんです。だけど狂言の技術は使っていなくて、即興でやったわけです。そういうコラボレーションの仕方でした。
それをやったおかげで、僕は相当即興ができるようになったんです。そこでは、狂言の謡・舞・語りはいっさいやらなかった。そういうこともやってきましたね。
——それが今回の『おがさわら乃會』でも生きているということですね。
はい。生きていますね。特に<新猿楽記>はほとんど即興ですから。
──一人新猿楽記ってやってたでしょ?一人で猿楽のレパートリーを挙げていく演目、あれ即興ですよ。
——全然分からなかったです!
うふふ。あれは台本通りじゃないですよ。即興なの。お客さんの反応を見てやっていた。コンメディア・デッラルテからの学びが生かされているというか、通常の狂言舞台ではあのようなことはできませんよね。
そういうところに価値観があるでしょう。人がやらないことを、やれないことをやれるという価値観だということですよね。差別化といいますか。
上演にあたって
——これまでの猿楽再現の試みと比較して上演にあたって気をつけたことはありますか。
もちろん。ご存知の通り、能楽堂というのは超特殊なステージですから、すごい色々な約束事があるわけですよね。そして、常座や正中、正先とか、いる位置によって色々な意味を持ったりもする。能舞台でやるということは能舞台の構造を知らないとできないんですよ。誰彼構わず能楽堂でできるわけじゃない。
それを言ったら、それは僕の強みです。能楽堂っていうところは、僕のホームグラウンドですからね。野外でやるのとは全然違いますよ。能楽堂でやったから、能楽堂の特性を活かして作品を作りました。
そして、能楽堂の特性を知っているからこそ、野外に行っても対応できる。まあそれは能楽堂ではなくて他の劇場でも、そういう感覚は持っているのかもしれませんが。特に能楽堂っていうのは特殊空間で、場所によって色々な意味を持ちます。そういうところがホームグラウンドでやってますから、野外に行ってもそういうものに転換できますね。
——今回の舞台で特に大事にしていた特性などはありますか。
うん。例えば簡単にいうと、4本の柱っていうのは四方の方角、東西南北を表しているんです。要するに「四方固め」になる。最後に演った<翁>の中で出てきた<万歳楽>(*8)というのは、四方固めをしているわけですよ。東西南北の邪気を祓っているんです。
*8 万歳楽…現代の翁に登場する。本公演では上鴨川住吉神社の神事舞を元に創出した役柄。おがさわら乃會で復元が試みられた。
または、最初に<呪師>というのをやりましたよね。あれも邪気を払うっていうことです。東西南北の4本の柱で鈴を振って祓っていた。そんなの普通の舞台にはないでしょう。それが特徴です。とっても宗教的な要素です。だいたい神楽殿なんかでやっているわけですからね。
もうひとつのこだわりは、録音で音を出すのが嫌いなんですよ。能楽師なので生音じゃないと嫌なんですね。生演奏っていうのにもこだわりましたね。
そして、出てきて一番最初の太鼓はうちの娘がやっているんですよ。娘はお坊さんです。うちはちょっとマニアックな一家なんです。
喋っていた翁と面製作
——今回の公演に限らず、猿楽研究のご活動についての質問です。今回も面を作られていたりとか、太鼓も特注されたりだとか、道具のこだわりについてもお聞きしたいです。
道具もね。僕は面の研究もしてるので、すごくこだわりましたね。
一番最初の<呪師走り>をやったときの面は、鎌倉時代の田楽の面ですよ。それはある仮面の研究者からお預かりしているものでね。その方は亡くなってしまったんですけれど、すごい面ですよ。
それ以外にも<翁><万歳楽>、それからうちの娘の顔で作った「乙」の狂言面「彩乃」っていうのも面は僕が作ったんですよ。

小笠原さんの娘・彩乃さんをモデルに作成した面「彩乃乙」(ご本人提供)
こだわりはパンフレットにも書きましたけど、今の能楽の<翁>って舞が中心なんですよね。だけど、翁面だけ切り顎になってるんですよ。あとは全部繋がってるんだけどね。
翁面、〈三番叟面〉、昔は〈父尉〉っていうのもあったんですけれど、その三面だけ切り顎、つまり顎が切れて紐で繋がってないんですよ。なんでって聞いてもわかんないんです。学者もわかんないんですよね。
でも私はわかったんです。喋るんですよ。
本来翁っていうのは喋るものだったんです。だから、口がぱくぱく動くように切り顎になっている。今の能や狂言——能楽は、そのスタイルだけ残していて、全く喋るのをやめちゃったんですね。それを意味深な舞、ミステリアスな舞と呪文みたいなものにして、表現しているんですよ。
私は「喋る翁」っていうのをやるから。喋るっていうのもいろんなことを喋るんですよ。言霊信仰、言祝ぐわけですよ。言挙げしていろんな堂を褒めたりとか、四季を褒めたり、自分の長生自慢——「自分は9000歳も生きているんだ」とかね。そういう荒唐無稽な、いろんなことを喋って、喋り倒した挙句の最後のメインが<宝数え>なんですよね。
そういうのが今の能楽の<翁>にはなくなっちゃってるから、これを僕は復活させようと思ったんです。
そして面も作りました。というのも、今の翁面は非常に神々しいというか、荘厳な真っ白ですよね。でも、僕らは黄色人種だからあんな人いるわけないんですよね。あくまでも有色人種ですからね。あれは非常に洗練させて昇華させた神様なわけでしょう。
でも、そうじゃない。黄色人種なんだから、もっと茶褐色で、それこそ人類の起源はアフリカから始まったとかいうじゃないですか。もっと肉色の色で、そして切り顎なんです。だけど今の能の翁面っていうのは、ここ(顎)の紐をうんと硬く結んで、ほとんど硬く口が動かないようにしてるんですよ。
なぜかっていうと、舞ってるときに口がぱくぱく動くと品が悪いと思うわけですよね。口開けて歩いてるとね、お育ち悪いでしょ。口はムッて結んでる方がお品が良いわけですよ。でもそれは喋る必要がないから、そういうふうにしちゃったんです。形だけ昔風に残してるわけでしょ。
私が作った面はここをもっとゆるゆるにして、口もうんと動いてたはずですよ。そういうのは昔に戻した。そういうところにこだわりましたね。
—— 面の製作にはいつごろからとりかかっていたんでしょうか。
僕は今理由があって萬狂言(*9)の関西支部の代表をしているんですね。和泉流の萬狂言の関西支部代表をやってるんですけれど、そのために30年ぐらい前に大阪に移り住みました。そのときに、買うと高いし、自分で使う面は自分で作ろうと思ってね。
*9 萬狂言…小笠原さんが関西支部代表を務める、和泉流狂言 野村万蔵家一門主催の狂言会。ホームページはこちら
だから30年ぐらいのキャリアはありますが、自分の使う狂言面だけを作ってたんですよ。能面作ったって使う機会も売るつもりもないですし。
ところがこの間コロナですることがなくなっちゃったときに、能面でも打つかなと思って、3年間で50面打ったんです。打つとやっぱり使いたくなるんですよね。でも僕が能を舞うことはないから、友達の能のシテ方に使ってもらったりとか、自分が作った面を使って新作をやったり、そんなことをしてたんです。
今はかなり技術も向上して自信ありますよ。<万歳楽>で使った面は1ヶ月で打ちましたからね。1ヶ月で一面ぐらい打てる技量になりました。


面の作成過程(ご本人提供)
——実際に<万歳楽>で使われていただろうと思われるものを作られたんですね。
そうそう。そうなんですよ。
兵庫県に有名な上鴨川住吉神社っていうのがありましてね。そこに<万歳楽>っていう古い翁が残ってるんですよ。そこへ行って、鎌倉時代の面を見せてもらって写したんですよ。それを借りてやるわけにはいかないからね。まるっきり創作じゃない。
——写して作られた。
そうそう。翁で使った面もそうですよ。
あれは、愛知の花祭っていうところで、今は途絶えちゃったけど田楽があったの。そこで使われていた「みやならし」っていう面をもとに、それを<三番叟>の黒色尉に見立てて作ったんですね。
こういうふうに鎌倉時代の田楽の面を黒色尉に変化させたんですよ。こういうのがクリエイティブなんじゃないかなって私は思ってるわけですよ。ただコピーするのも違うじゃないですか。オリジナルを超えられないじゃない。

嘘吹き型面(上鴨川住吉神社)をもとに作成した嘘吹き型面
(ご本人提供)

古戸みやならし面をもとに作成した翁面
(ご本人提供)
——ちなみに太鼓についてもお聞きしても良いでしょうか。
太鼓はね、あれは実は僕じゃなくて大倉源次郎さんの着想なんですよ。太鼓の起源っていうのが『古事記』と『日本書紀』に載ってるんですよね。
酒宴を催したときに神功皇后に仕えていた宰相・武内宿禰がお酒を発酵させた器、樽みたいなのがあるでしょ。そこに革を被せて叩いたのが太鼓の始まりだっていうのがあるんですよ。
それを、この大倉源次郎さんにそういう文献があるからそういうシーンを作ったら面白いんじゃないって言われた。革職人の方を紹介してもらって革を作ってもらったわけです。発酵させてお酒を作った桶に革を被せて叩いたのが太鼓だっていうシーンをやるために作ったんです。
「してみて良きにつくべし」
——プログラムや記事の「野村耕介さん(*10)の意思を継ぎたい」という言葉がとても印象的でした。野村さんの「大田楽」にも実際に携わってきたなかで、野村さんの指導方法や研究方法で参考にしている面があればお聞かせください。
*10 野村耕介(1959–2004)…贈八世野村万蔵(五世野村万之丞)、日本の狂言方和泉流能楽師。小笠原氏は1983年に入門。野村耕介氏が中心となって田楽を復元した「大田楽」のプロジェクトにも助手として参加した。
もう多分にありますよ。すごく勉強させていただいたのでね。一番簡単にいうと、かの世阿弥が「してみて良きにつくべし」(*11)って言ってるんですよ。
*11 永享二年(1430)奥書の能楽伝書『申楽談義』の言葉。世阿弥晩年の芸談を次男の元能が筆録したもの。
まずやってみなきゃわかんないだろうと。やってみて良かったのを採用しろと言ってる。当たり前のことなんだけど、結局、やりもしないでこうだろう、ああなんだろうとシミュレーションして考えてもしょうがない。
そういうことをおっしゃっていて、私もそれはすごくそうだなと思ってますから。「完成」ってことはないわけですよね。
だから僕、本番でも変えますし。それがさっきの即興とも関連してるんじゃないかなって思うんですよね。決めてかかっちゃダメといいますか。いちおう叩き台のベースは持っていながら…やっぱり嗅覚ですよ。鈍感な人はお客、場の空気も関係なく、自分の覚えてきたものをやるんでしょうけどね。
私は「この状態でこれをやると得策じゃないから、もう少しこうやったほうがいいかな」とかって本番中も変えたりしますね。これが即興、即興性かな。
私は「してみて良きにつくべし」っていうのは、実は即興っていうことも言ってるんじゃないかなって思うんですよ。そう解釈してる人はあんまりいないかもしれないけどね。まさにそう。舞台ってまさにそうですよ。
そういうのを野村耕介先生もおっしゃっていて、私もその通りだと思ってそれを踏襲してやってますね。
——色々な人に実際に動いてもらって、そこから作っていく。
そうですね。まず「やってみて」って言って面白いと採用する。もしくは削除するとかっていうことですね。一から作ってないっていうか。「ああそれ面白いね」「ちょっと違うね」とかってやっていくんですよね。
(「大田楽」は)ある程度の各ジャンルのプロが集まって作ってましたから、全部を作ってるわけじゃないんですよ。そこのパートの人にやってみてもらって、それを編集していく。そういう作り方ですね。
野村耕介先生は、田楽っていうのをね、復元っていうか、「復元・考証・創作」ですよね。私がやってるのと一緒で、まったく昔のままやってるんじゃなくて、現代風にアレンジして、洋楽器使ったりもしてますしね。そういう部分がすごく勉強になってますよね。だけどまるっきりでたらめじゃなくて、ちゃんと勉強というか考証もしてその上で、ですよね。
——考証と創作、バランスの取り方が難しそうですね。
それはね、舞台芸術だけじゃなくテレビドラマもとかもそうです。たとえば、大河ドラマの芸能考証とかそういうのも野村先生がやっていて、亡くなったあとを僕は引き継いでやらせてもらったんですよ。
芸能考証って、クレーム係なんですよね。視聴者から「平安時代にこんなのあるわけねぇじゃねえか」ってクレームが来たときに「いやいや。芸能考証にこの方が入ってますから」ってね。
そういうクレームが来たときに、番組スタッフとしては「この人が芸能考証ですから、文句あったらこの人に言ってくださいね」ということになるわけですよ。ということはどういうことかというと、まったくでたらめはできないということなんですね。
わかってる人が見たら、平安時代にスマホなんかあるわけないじゃないですか。そんなのを大河ドラマで出したら、絶対に投書が来ますよね。「あるわけねぇだろ」とか言ってね。
でも、平安時代のことって、タイムマシンでもない限りわからないじゃないですか。実際に見た人は誰もいないわけですよね。これは絶対ないだろうっていうのはわかるけど、こういうことはありえたかもしれないなっていうね。
だからやっぱり理論武装できてないと駄目なんですよ。つっこまれないようにする必要があるわけです。そのときに「わかってるんだけど、それを今そのままやったんじゃ面白くないから変えましたよ」ってね。
<宝数え>とかもそうで、わかってないのにやったら駄目なんです。<宝数え>がどういうものであったのかとか、それはちゃんと踏まえなきゃならないと思いますよ。
——小笠原さん自身もそのような作り方をしていらっしゃると。
そうですね。ただそのレベルによりますよ。今回は出演者が少なかったですけど、娘と息子とあと音楽歌唱の稲葉明徳さんですね。
音楽はもう稲葉さんにイメージを伝えて、こんなイメージを伝えると、プロなので「じゃあこんな感じでどう?」とか言って見せてくれるんですよ。「ああそれがいいね!」とか「もうちょっとこっちにして」って作れますよね。
ただ息子とか娘は経験値が少ないし、息子なんか特に僕の弟子ですから、僕が演技指導しましたね。やってみてじゃなくて、こういうふうにやってって言って教えて、それをやらせてみて、「もうちょっとこうしたほうがいいかな」ってやる。
そのレベルによりますよ。稲葉さんとはクリエイティブにできますけど、息子はまだまだですから「こっちがこういう形でこういうふうにやって」って手取り足取りしないとできない。
役者の技量によります。一番いいのはプロばっかりが集まると楽ですよ。でもそうするとお金がかかるでしょう。そういうことなんですよ。楽だけど、プロを呼ぶとギャラが高いってことですよ(笑)。
今後
——最後に、今後の活動の目標や予定についてお聞かせください。
せっかく立ち上げましたから、今後も第二回、第三回と続けていきたいです。ただ、ずっと作るって作業はそんなに生やさしいことではないので、インターバルを長めに、せめて2年ぐらい時間をかけて作っていこうと思います。
私は今、関東と関西の両方で活動しているので、例えばこの間やったものは来年京都とか大阪で再演してね。
再演って言っても、もうちょっと完成度を高めてバージョンアップさせて、その間に新しいものを同時進行で作って再来年に東京でやる。そういうスパンにしていったらば、作品自体も充実していくかなって思っていますよ。
——その中心には今回の『新猿楽記』などがあるのでしょうか。
そうですね。あとは<延年>(*12)を復元したいと思っています。<延年>っていうのはつまり、レパートリーの延年もあるし、催しの延年っていうのもあるんですよね。すぐにはできないと思いますけど、それをやりたいと思ってますね。
*12 平安時代に起こった寺院芸能の一つ。僧侶や稚児が行った歌舞で「延年の舞」とも呼ばれる。種類は多様で能や狂言に影響を与えたものも多い。
まだまだ<翁>もわかっていないところもあるし、今回は<翁>にスポットを当てましたが、私は狂言師ですから<三番叟>っていうものもあるわけです。
<三番叟>をもっと深掘りもできるし、今回はちょっともう時間がなくてできなかったから、次は<翁>のなかの<三番叟>の部分を、黒い翁っていうかね。そういうところにスポットを当てたり、いろんなことができると思いますよ。今はもう退転してやられなくなってしまった<父尉><延命冠者>とかもね。
——見られるのを楽しみにしています。
ぜひぜひ(笑)。観客動員よろしくお願いします。
——今後狂言というものをどういったかたちで広めたいと思っていますか?
僕、明後日からパリに行くんですよ。11月にパリで公演なんです。あとイタリアのフィレンツェで公演するんです。
海外っていうならば、アニメ・漫画、サブカルチャーっていうのがもう人気がすごいんですよ。ジャパンエキスポなんてすっごい人が集まってね。あとは世界遺産になった和食、日本酒は西洋とかでブームなんですよ。
私は「Kyōgen」っていう言葉を世界で流行らせたい。酒・漫画・アニメと匹敵するぐらいに「狂言」という言葉を世界中の人に知ってもらいたい。それがお役目だと思っています。
そのためには、狂言のいろんな角度からの切り口でいろんな魅力を持たないといけない。
今の能楽も素晴らしいけど、それじゃあ裾野が広がらないと僕は思ってます。能楽は、「高尚」「敷居が高い」という先入観もあいまって、日本人でありながら、能とか狂言に興味を持ってみたことない人の方が大半です。
私は海外で流行らせてというか、知ってもらって日本に逆輸入したいです。
——そのために、新たにやりたいと思っていることがあればお聞かせください。
僕の他の人が真似できないことは、海外の展開ですから。私には技術はそんなにないけど、パリとかベトナムとか海外でこんなに個展を開いているのは僕だけだと思いますよ。
それは日本の能面作家には伝手がないからね。自分の特性を活かしてるってことです。これだけしょっちゅう行き来してるんですからね。
能面っていうものももっと知ってほしいですよね。今は非常に貴重なもので、御神体でもあるからって言ってなかなか触れさせないことも多いですからね。世界中のほとんどの人がこんなに素晴らしいものがあるってことを知らないですよ。
猿楽研究とか一番最初のことに戻っちゃうんだけども、ようは私はクラシックとモダン、両方が必要だと思うんですよね。
バレエでもクラシック音楽でもそうでしょう。クラシックばっかりじゃなくて、モダンっていうものも必要だと思うんです。クラシックだけ、モダンだけの専門の人じゃなくて、両方ができなきゃ駄目だと僕は思うんですよね。
だからこそ私は古典も研鑽して稽古も積んでいるし、新作もバンバン作っているっていうことなんです。復元考証は創作でもある、つまりモダンでもある。
「古くて新しい」っていうのが僕は伝統芸能だと思ってるんですよ。古くて新しいもの、つまり普遍的なんだと。常に新鮮である。これがとっても大切なことだと思うんですよね。
そのためのアプローチとして、クラシックもモダンも、つまり古典も新作も同時並行で充実させていこうと思っています。これからもっと挑戦して作っていきたいと思います。

(筆者撮影)
編集後記
矢鋪
様式性が重んじられるというイメージの強い能楽ですが、能楽師としての根幹を大切にしつつも、枠に囚われない活躍をされている小笠原さんの姿にとても感銘を受けました。生き生きと語られる小笠原さんからは、能楽が生きた芸能として現代の人々にも愛されてほしいという願いを垣間見ることができたように思います。途絶えてしまった芸能の現代での復元や海外の仮面劇とのコラボレーションなど、果敢に活動される小笠原さんのお話を伺って、現在では不変という印象を持たれることの多い能楽は、実は王道もこなしながら新しい風も取り入れる小笠原さんのような方がいたからこそ、脈々と継承されてきたのではないかと感じました。このたびは『おがさわら乃會』を拝見し、ぜひお話を伺いたいという突然のお願いを快く引き受けてくださり本当にありがとうございました。

コメント