文献紹介『アーティスティックスポーツ研究序説』
- ゼミ 横山
- 2024年6月4日
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現代心理学部 映像身体学科 3年
田村 大空
はじめに
身体表現における芸術性とは何か。小学生の頃からヒップホップダンスを経験してきた私は、この疑問につきまとわれてきました。人によってその定義が異なる曖昧な概念です。しかし、最終的な答えは異なろうとも、そこで求められる要素は存在するのではないかと考えます。例えば「体の動きだけでなく内面が重要」や「数値化して評価できない」といったところではないでしょうか。
こうした問題を考えるヒントを求めて、2014年ソチ五輪個人戦を団体戦共に5位に入賞、同年世界選手権大会で準優勝を収めた町田樹氏の『アーティステックスポーツ研究序説』を読んでみました。フィギュアスケートは、スポーツに分類されるものですが、その採点項目には、「技術点」と「演技構成点」の二つがあります。町田によると後者には、「音楽の特徴の表現性」や「独創性」、「個性」といった「芸術性」が含まれています。こうした技術とは区別される芸術の側面を町田氏がどう考えているかをご紹介します。
絶対評価
町田氏は、フィギュアスケートや新体操などのアーティスティックスポーツ(以下AS)などについて、「点数」でなく「言葉」による批評の必要性があると述べています。振付の創作者と実演者によって体現されるASの芸術性は、技術点と同様に審判員によって点数化されます。しかし、この「芸術点」は「技術点」と体質が決定的に異なる部分があります。それは、評価の形式です。理論上、「技術点」の評価方法が絶対評価にも相対評価にも対応できるのに対し、「芸術点」に限っては相対評価によって数値化することしかできません。町田氏は、この差が生じる原因について、評価対象の価値の良し悪しを定義できるか否かにあると述べています。
例えば、対戦競技や記録競技の結果も数値で表されています。野球であれば「◯対◯」という形で、隆上の100メートル走であれば「◯秒」という数値で結果が提示されます。これらの数値は、競技という現象の結果を客観的、あるいは科学的に説明するものです。野球の「◯対◯」という数字は、(誤審がない限りは) 誰が判定しても変わりません。陸上競技も100メートルを走る速さが、時間という科学的な尺度と方法で測定されます。
ASの技術点も、これらの数値と近い性質を持つ、あるいは持つことができます。先にも述べられているように、フィギュアスケートの技術点は、技の難度と質の評価尺度が定義されていますが、ゆえに、この評価尺度さえ認識していれば、たとえ競技会を実見していなくとも、そこで起こった現象の技術的側面に関しては、競技成績からある一定程度、具体的に把握することができます。
これはつまりフィギュアスケートにおいて技の優劣をめぐる価値が、厳密に体系化されていることを意味します。そのため技術点は、(往々にして差異が生じるのではありますが)実施された技を誰が評価しても、同様の点数にならなければならないということが建前になります。
相対評価
しかし、すべてのASの技術点の評価が、絶対評価を採用しているわけではありません。アーティスティックスイミングの技術点は、加点法でも減点法でもなく、クレーディング(技の難度や質を1~10点の間に位置付けるもの)による評価を際用しているため、どうしても相対評価の性質を払いきれません。
しかし、ASがスポーツの身分を維持しようとする限りにおいては、技術点の評価をめくる客観性や科学的方法を出来得る限り完金な形に近づけられるよう追求することが理想とならなければならないだろうと町田氏は述べています。
その一方で、「芸術点」については絶対評価による数値化が不可能な領域です。なぜならば「芸術性」の優劣を判断することはできても、何が優れていて、何が劣っているのかを、いかなる作品にも適用できるような統一的評価尺度として厳密に定義することはできないからです。従ってASの芸術点は、例外はあるがいずれの競技も自ずとグレーディングによる評価を採用する傾向にあります。
本書は次のような考えを示しています。例えば、フィギュアスケートにおける芸術点の各項目は、グレーディングによって優劣の判断が0点から10点までの間で点数化されますが、「インタープリテーション」(音楽解釈)の項目が8点と評価されたとします。絶対評価によって算出される技術点は、競技会で実施された技がどうであったのかという実技面の現象をある程度説明することができるのに対し、この「8点」という数字には、選手のインタープリテーションに関する能力を相対的に序列化する機能しか与えられていません。
つまりインタープリテーションが7点の選手よりも優れていたということだけは伝わりますが、どのように音楽が解釈され水上で体現されたのかという手段や結果を具体的に表す数字ではないということです。
芸術点を判断する審判員の立場から言っても、眼前に展開されている演技の音楽解釈の妙をいかに仔細に解釈しようとも、それを点数に置き換えなければなりません。音楽解釈がどうであったかという具体的な内容はもはや関係がなく、解釈が他者よりも優れていたか、分っていたかを判断し、その優劣関係の順序を相対的に数字で表すことができればそれでよいということになります。
従ってASにおける芸術点とは、「ある限られた集団内」の優劣をあくまで相対化するための尺度に過ぎないと町田氏は述べています。さらに、ASの評価基準のルール改正とともに刻一刻と改変されていく運命についてもここで指摘されています。同じ「8点」でも競技規則が変わってしまえば、それと同時に演技の価値も変動してしまうという点です。
これをふまえて本書では、ASが体現する芸術性を点数で評価することは、振付の創作行為および演技の実演行為の究極的な抽象化と言えると指摘されています。その一方で、点数による相対評価が悪いといっている訳ではないということも記されています。ASがスポーツという身分を獲得している責務として勝敗を決しなければならない以上、選手が体現する芸術性も一度点数に換算し、その優劣を相対化することは必要不可欠な作業であるということです。
再評価
しかし、一旦競技会に出場している選手たちの優劣関係が決められた後には、その芸術点はもはや何の説明機能も果たさないことについても触れられています。「◯◯選手の演技の芸術点が◯点だった」との記述は、いったいその演技の芸術性の何を説明しているというのだろうかと芸術性を点数により評価することの限界が示されています。
また、町田氏はASの「芸術点」の問題点をもう一つ挙げています。それは、なぜその点数になったのかが具体的に再評価されない限り、それ単独では競技の歴史を証言する記録にはなり得ないということです。対戦競技や記録競技は競技結果をそのまま蓄積するだけで、その競技の歴史をある程度立ち上げることができます。
例えば、陸上競技における100メートル競争の歴代選手たちが築き上げてきた記録(タイム) は、「人間はいかに速く走れるか」ということに挑み続けた人類の不断の努力の証になります。たとえ過去の競技会の映像が残っていなかったとしても、競技結果の記録さえ残されていれば、その当時の選手の走りがどうであったかをある程度、具体的に把握することが可能になります。野球も例として挙げられており、勝率や打率、急速などの数字も、その時のチームや選手のコンディションをある程度具体的に反映するものだと述べられています。
町田氏は、この点でASの競技結果とそれらの結果は異なっていると述べています。絶対評価によって算出された「技術点」は、その当時の採点基準を示す競技規則とともにアーカイブされていれば、選手の技術の進歩や様相を物語っていると言えます。しかし、「芸術点」に関しては、それ単独で歴史を語ってくれることはありません。また、町田は対戦競技や記録競技も、競技結果を表す数字だけでは、その競技の真価は伝わらないだろうとした上で、ASの芸術点に限っては、芸術性の真価どころか何も実質を伴わず、そのような点数の蓄積を果たして歴史と呼べるだろうかと述べています。
ASの演技の中には、点数では言い表すことができない芸術的な価値が確かに体現されていると考えられます。だからこそASは、「観戦」という態度だけでなく、「鑑賞」されるにたる身体運動文化であるはずなのだと町田氏は考えています。つまり、ASの「アーティスティック」な側面の歴史を形作ることができるのは、点数ではなく、映像による記録や言葉による批評なのだということです。
まとめ
ASでは芸術面を数値化して示してはいるものの、その数値がある作品の芸術的価値を具体的に浮かび上がらせることができないという点が印象に残りました。その芸術性を完全に情報にして表すことができない点は問題にもなり得るものですが、芸術の魅力でもあると感じているからです。数値や言語で表現できない瞬間的かつ独自性のあるものであるからこそ、芸術は時代を越えて人々の心を動かしているのだと考えます。
参考文献
町田樹 2020『アーティスティックスポーツ研究序説』白水社。
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